わたしたちのことば

「イエ クルルク マルク イヤルケ」

「ウル クルルカ マルカ イヤルケ」

 一人の白い髭の男が大きな石を梃子で動かそうとしているところへ、もう一人の若い男が現れ、手伝おうとした。太い木を下に差し込み、半ば無理やりに持ち上げようとしていたが、そうそう簡単には動きそうにない。若い男は力任せに太い木に体重を乗せたが、それでも動かない。

「イエ アイリク クラレイカクル ケルヤ ケケ」

「アリ イエイク」

 意思疎通を行うための彼らの言葉は、互いに通じ合っているのかを確かめるように、慎重に発せられた。

 白い髭の男は手振り身振りをまじえながら、若い男に小さな石を持ってくるように言った。若い男はその意を解したのか、一度姿を消して、戻って来た時には太い木を三本ほど抱えていた。

「クラレイカクル ケルヤ ケケ」

「クラレイカクル ケケ カルクナルヤ ルヤ」

 白い髭の男はやや落胆しながらも、再び手振り身振りをまじえて説明した。今度こそは合点がいったという表情を若い男は見せると、姿を消した。白い髭の男は心配そうにその後ろ姿を見送った。畑を作るには、どうしたってその石が邪魔なのだった。


「言葉というのはそんなふうに成り立って行ったのかもしれない」

「だとしたら、ちょっと寂しいね」

 男は女のいうの意味を理解しかねた。男は言葉を、人間が協力して仕事をするために必要な意思疎通の道具である、と定義した。となれば、どのように使用され、どのように伝えられるかがある程度定式化されてくれば、言語はそれなりに融通が効くようになる。行動、とりわけ仕事の原則は、順次、分岐、反復だけで十分に成立してしまう。ある手順にしたがって一から二、二から三へと進み、提示された現実の条件によってオプションAやオプションBへと変化し、ゴールにたどり着いたらまた別の仕事に取り掛かる。このプロセスを実行するための言語は、とても単純なものだけで事足りるのだ。

「言葉はきっと、歌だったんじゃないかなって思うの。心を通わせるための」

「形而上的なことは僕にはよくわからないよ」

 研究棟の窓からは、青々と葉の繁茂した桜並木が見下ろせた。後期の授業は始まったばかりで、まだ人の姿は多くはない。研究室にも、男と女以外には誰もいなかった。窓辺に立つ女は、食堂の屋上で身を寄せ合う椋鳥の家族を見ながら、言葉が単なる形而下の物質的、運動的な表象、つまりは現実にそこにあるなにかを代表する、置き換えただけのものではないと、そう信じていた。

 窓を開けた。ぬるい風が吹きこんだ。風にはかすかに夏のにおいがまだ残っている気がした。そういう微かな感覚を言葉にしたら、どんな詩になるだろう。と、工学部の学生らしからぬ考えを、きっと男は笑うだろうと思う。悪気はないのだ。ただ、笑うだろう。

「目に見えるもの。見えるようにできるもの。視覚化して、感じられるもの。感覚値ではなく、精確な測定が可能なもの。すべてをそうしたものに置き換えることこそが、僕たちがやっている実験の本質ではないかと思うのだけれど」

「うん、それはそうかもしれないわね」

 女は窓を閉めた。


「ヒューラル ラクルライ ラウルムルーチェラ」

 男は歌った。歌声は空のように澄み、女の心を洗った。女は地面に敷いた葉のうえに寝そべりながら、眠るような心地でそれを聞いていた。行為の前に誘うために歌をうたう男はいくらでもいたが、行為を終えたあとにこうして優しくうたってくれる男は彼だけだった。子供ができれば、きっと同じようにして、子供にもその歌声を聞かせてやるのだろう。

 女は夢見心地だった。男もそのうち女の横に寝そべると、互いの肌の熱を感じながら、うたうように言葉を交わした。終わりのない物語。矢で鳥を射止めた話や、銛で鰐と格闘した話、芋の葉でうさぎを虜にした話、等々。話の内容などどうでもよかった。お腹の底に響くような太い声が心地良い。そんな声でうたう男に寝てくれるのならば、女は永遠に眠りの中でも構わないと思った。

 ハヌルカという名の犬が、木陰から羨ましそうに二人を見ていた。犬の目に映る二人は四肢を絡ませ、ゆっくりと沼で溺れていく蛇と捕らえられた動物のように、恍惚とした表情でぼんやりと沈んでいった。二人は続く。二人は子を作り、その子が子を作り、そうして歌がうたい継がれていくのだ、と名前を持つハヌルカだけが、その目撃者となる。


「つまりは、言葉の起源は歌だったのだと?」

「さあ、どうかしら」

「君の話を聞く限りでは、僕にはそうとしか解釈できなかったけど」

「ならそうなのでしょう。言葉の多義性なんて、あなたは気にしないみたいだから」

「気にしないわけではないよ。多義性以上に、厳密な定義を大切にするだけだ」

「同じことよ」

 などと喧嘩にもならない生産性のない議論を交わしながらも、まるで無関係な分子生物学の実験に集中している二人は、どうやってもわかりあえないようで、どうしたってわかりあっているようでもある不思議な関係、つまりは恋人だった。

 部屋に戻ると、研究の話題も、言葉の話題もやめた。それ以外に共通の話題を多く持たない二人にとっては、部屋での時間は静かなものだった。特に取り決めたわけではなかったが、研究は研究室で行うもので、研究室でする会話はその場にふさわしいものがある、と二人とも考えていた。

「雨、降りそうだね」

 女は窓の外を見るのが好きだった。そうして意味もなく天気のことなどを話した。

「どうかね。降らないといいけど」

「いいじゃない。雨が降ったら少し涼しくなるかもよ」

「そういうものかな」

 無意味な話題を嫌うはずの男も、他愛ない言葉のやりとりに安らぎを感じた。意味がない、ということが一種の安全性を保証してくれているような気がした。何が守るべきもので、何が守られるべきものか。二人の関係においては、ともに過ごす時間のあらゆる断片が、同じように大切にしなければならない。退屈な時間も、幸福な時間も、苦しみも悲しみも、全部まぜこぜにして、大切にしなければならない。男はそれを、女から教えられた、と思っていた。


「アリウク アエラ ルキミルカルカ」

「アエラ ウク アリウク ルキミルカル カリエラムラ」

 魂を地上に招き入れるか、天上へと返すのか、それを選ぶのはいつだって母親だった。深い虚無へと彼女を陥れるのは、生まれたばかりの、濡れた赤ん坊だった。その緩やかに曲線を描くお腹からは、紫色の帯が伸びている。水がしたたっている。彼女は体の浮くような感覚を、子を産み落とす時に感じた。記憶の奥のほうから声がする。遠く、深く、そこはなにもない場所だった。

「アリウク アエラ ルキミルカルカ」

 母親は捨てることを決めたのだ。こんにちは、こんにちは、と嘆いて泣くかのような赤ん坊の声を塞ぐのが、母としての最初で最後の仕事だった。この世に生を与えたものの宿命として、自らその生を終わらせる義務があった。

「アリウク アエラ ルキミルカルカ」

 夜は彼女の中でわずかに傾いて、悲しみに似た紺色で体内を満たしていく。そこに潜む太古を星々の光を感じ、ようやく安心したのだろうか、ついに赤ん坊は泣くのをやめた。石のようになった嬰児をバナナの葉で包むと、そのまま火の中へ投げ入れた。

 煙は高くのぼる。木々の梢を抜け、暗い空を藍鼠に染めていく。純情な従順に心はじゅくじゅくと血を滲ませる。女は夜と朝の境界に子供を産み、美醜が混交する弖爾乎波の合わない地上に迎えるには、自分が弱すぎると思った。

「アリウク アエラ ルキミルカルカ」

 祈りの言葉が、どこかへとあっさり消えてしまう。死んだ赤ん坊のための言葉か、子を殺さざるを得なかった母親のための言葉か、誰にもわからない。ただ、何度もそうして祈りの言葉を天に向かって唱えた。それは、願いではない。女はなにも望んでなどいない。ただ祈ったのだ。そうして意味から逃れるために。地上から、遠ざかるために。

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