深いあいに君は笑う

 男は改札を出ると、周囲を見渡す。都心で蛍が見られるという話を知っているのは、どうやら二人の他にもいるらしかった

 女はいない。

 ベッドタウンの地味な駅だ。その割に人が多いのも、誰もがひとえに光を求めて集まるからだろう。走光性を持つ虫が夜の街灯の周りを飛び交うように、バチン、バチンと嫌な音を鳴らしながら、限られた命を消耗していくのと同じだ。人もまた、光に向かって進むしかなかった。

 ——だが、それにしても。

 と男は思った。

 小さな虫の放つ弱い光に、それほどの意味があるのだろうか、と。目をつむって適当に考えてみるものの、脳裏に浮かぶのは、女の姿だけだった。


「ごめん、待たせたかな」

 紺地に朝顔が控えめにあしらわれた素朴な柄でも、男をひきつけるには十分だった。そうして女の浴衣姿に目を奪われたのは男だけではなかった。仕事帰りであろう背広姿の人や、華やかな洋服で着飾った人、制服を着た学生らしき子供たちと、周囲を通り過ぎるだけの人々もちらと横目で女を見やった。派手さはなくとも、凛とした涼やかな美しさがあった。

「うん、ちょっと待ったかな」

 男は悪戯好きな子供のような笑みを浮かべた。応戦するかのように、女は手に持っていた巾着を男の肩にぶつけた。そうした子供じみたじゃれあいをいくらか互いに出し合ううちに、女の袖口から覗く白い手がひょろりと伸び、男の腕にからみついた。

「おっ、いやに冷たいね」

「電車で冷えたんだよ」


 夏の終わり頃、まだ昼の熱は容易に消え去らない夜だ。女の肌はひんやり冷たい。それに加え、浴衣の朝顔の紫と白の濃淡が冴え、一層と女の肌を冷たく感じさせる。心地良い。男は女と腕を組むうち、瞬く間に体温が失われ、やがて土のように冷たくなる気がする。

 ——いや、それも悪くない。近くにいられるのだから。

『どれくらい歩くの?』

「ちょっと遠い。サンダルだと疲れるかな」

『あたしは平気。歩くの好きだから』

「そっか。なら良かった」


 普通に歩けば十五分ほどの距離を、ゆっくり時間をかけて歩く。

 公園に着いてすぐに蛍が見られるわけではない。小川のある辺りまで、まだいくらか距離がある。

 男は女の顔を見た。月明かりに青白く光っているようだったが、月は出ていなかった。公園のライトがそう見せているだけだった。

「平気? ちょっと休もうか」

 女の足は暗くて見えない。

 小川への道の池の端に、弁財天を祀る祠がある。男は一瞬、歩調を緩めて案内の文章を読もうとする。

『平気だよ。早く行こう』

「うん」

 弁財天は元々ヒンドゥー教のサラスバティー、つまりは川の女神だ。創造の神ブラフマーの妻ともされる。その名の通り、弁舌や財産を与えてくれるらしい、と男が説明書きをそこまで読んで、腕を引かれる。

『女神さまなんて見てないでよ』

「違うよ。説明を読んでいただけだって」

『同じだよ。あたし以外を見ないで』

 嫉妬か、と男は苦笑しながらも、悪い気はしない。女の美しさを知っているし、女自身がそれを自覚していることも理解している。女が嫉妬するのも女神くらいでようやく釣り合いが取れるのだ。

『笑わないでよ。あたし、真面目なんだから』

「ごめんごめん」

『ごめんは一回でいい』

「ああ、ごめんって」


 小川が近づくにつれ、人も増える。人混みと呼ぶほどの数ではないが、日の暮れた公園の一画の、電灯もない場所に人が集まるのも妙なものだ。

 男は再び、腕を強く引かれる。

『ほら、もういるよ』

 小川の向こう側の暗闇から、ぼんやりと淡い光がゆらゆらと飛び出してきた。一つひとつは弱々しく明滅しながら、行くあてもわからぬかのようにさまよっていた。映像や写真で見るほどの派手さはなかった。黄色い点が時々光るだけで、あまりに脆く儚い光は、むしろ男を不安にさせた。

 蛍の光には三種類ある。求愛、威嚇、そして刺激を受けた時に光る。男はその光の意味を読み取ろうとしたが、小川の向こうは案外遠く、意味が解し難かった。

 隣の女の表情をうかがうが、暗闇にまだ目が慣れていないせいで、どこか判然としない。

『すごいね』

 声だけはよく聞こえる。

「うん、すごい」

 男は思ってもいないことを口にしたことを、すぐに後悔した。後悔は過去の記憶が今を侵す病だった。過去は常に今に追いついた。それはついには、未来までも犯してしまうものだった。

 待ち合わせの頃にはまだ残っていた西の空の紫も、ビルの隙の橙も、すべてがあいに沈んでしまった。夜がこんなに濃いとは思わなかった。

 風が吹く。女の肌が触れていると、肌寒く感じられる。もう女の体温が上がることはない。冷たいままの腕が、生きている男の体温を奪っていく。

 間隔をあけて立ち並ぶ人の隙を縫って、二人はさらに深い闇へと歩みを進めた。夜より暗い闇だった。明かりも、月も星もなかった。小川のせせらぎだけが耳に響いた。対岸には、仄かに光る命だけがあった。

 男は群れになって飛び交う幻想的な光景を期待していた。だが、頼りない光を見ているうちに気がついた。期待はずれというより、期待以上のなにか別のものを見ている。一つひとつが相手を求め、子を宿し、未来へと繋がる光、過去から繋がれた光なのだ。星を見上げた時に見る数億年も前の光と同じように、そこには遠い過去が隠されていた。

 男は今、未来と過去の入り混じったような光を目にしている。過去にも未来にも繋がりようのない男だけが、そこでひとりだ。自然が回復し、水が清らかに生まれ変わり、蛍が戻ってきた。それでもまだ、あの時見た光はここにはないのだ。

『あたしだって、消えはしないんだよ』

「そういうもんかな、そうなのかな」

『そうだよ。そうに決まってるじゃん』

 男は激しい耳鳴りを感じる。藍に染まった暗闇に、光る蛍が一つまたひとつと増えていく。女には熱がない。男はそんなことは構わない。祖父の底翳のように、世界から色が失われていくのを待ちながら生きるなど、ほとんど死んでいるのと同じではないかと思っていた。違う。もう二度と彼女とは会えないはずだった。骨を埋めた場所に女がいないことなど知っている。そこにいないのではなく、どこにもいない。その確信が、微かな光の明滅とともに崩れていく。崩れ落ちた破片が小川に落ち、静かな水音をたてて流れる。

 ——弁天様。弁舌も財産もいりません、ただ私をもう一度だけ、死に近づけて、彼女の熱を感じたいのです、弁天様、弁天様、延寿もいらないので、どうか今日という夜にもう一度だけ、お願いです、お願いです。

 男は淡い光に願う。蛍の光が男の頬を照らすと、涙が光を弾く。誰も見ていない。聞いていない。嗚咽が漏れそうなのを堪え、息をするのを必死に抑え込む。このまま時間が止まればいい、永遠に記憶の中に自分を閉じ込めてしまえばいい、男がそう思った瞬間のことだ。ふと、誰かがそっと手に触れる。

「ねえ、どうしたの?」

 視線をおとすと、朝顔の浴衣の少女が微笑んでいた。

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