源流

 少年少女はバイト終わりに近くのコンビニに立ち寄るのが習慣となっていた。時に二人きり、時に四、五人でたむろして、バイト後の空腹を簡易なジャンクフードで満たした。夜の静寂には似ても似つかない煌々と照るコンビニの光に集まるのは彼らだけではなく、暗闇と孤独を恐れる羽虫が飛んで光に集っては、鱗粉を散らしては、ついには落ちた。

「うげぇ、気持ちわるぅ」

「蛾だね。珍しい。ツマキシャチホコじゃないか」

「ん、しゃちほこ」

「うん」

 翅を広げて、ぱたぱたと地面でもがく蛾の名前を少女は知った側から忘れてしまった。いずれ、というより今すぐにでも死のうとしている生き物の名前を覚えておく気にはならない。覚えた瞬間に少女と蛾との間に、関係性が生じる。それを嫌ったのだ。

「ツマキシャチホコはこうしてぱたぱたと翅をばたつかせているとよくわからないけど、ピッタリ閉じると、樫の木の枝のような白い木片になるんだよ。いわゆる擬態ってやつだね」

「そういうの、詳しいよね」

「そうかな。普通だけど」

「そうかな。普通なのかな」

「わかんない」

「わかんないんかーい」

 バイトの時と同じ、軽い、緩い、無目的で無意味なノリで会話する。そうして空虚を空虚で埋めることでしか、時間の潰し方を知らない彼らには、無為に過ごすことこそが青春だった。

 少女はマスクを片耳からだらりと垂らして、焼肉弁当を頬張っていた。ツマキシャチホコのことなど、もう忘れてしまった。ただ口の中を満たす甘い味付けと、獣の肉のにおいで、食の喜び夜食の背徳感を存分に満喫していた。

 少年はマスクを外そうとはしなかった。屋外でも感染リスクはあるからね、といぜん言っていたのを覚えている。とはいえ、二人きりでこうしてコンビニ前の駐車場の縁石に座って話しているのだから、あるとしたら少女を感染源とした感染くらいのものなのだが、少年自身はそうしてなおも警戒することの意味を解していないらしい。

「まるでそれじゃあ、あたしが汚いみたいじゃない」

 耳から垂れるマスクを、ぴらぴらと指でつまんで示した。少年は意味を解さないらしく、なにが、と一言で少女に尋ねた。

「だからさ、それ。感染リスクってあたしだけでしょ」

「ああ」

 ようやく少女の言葉の意味を解し、少年は顎に手をあてて少し考えるようなジェスチャーを見せた。どうせ都合の良い言い訳を考えているのだろう、彼は頭が切れるし弁が立つ、聞いたこともないよくわからない言葉を並べ立てて煙に巻かれるのだ。と少女は自ら不平を漏らしたものの、あらかじめ諦めてもいた。だが、その諦めは結果として無駄だった。

 少年はマスクを外した。

「人間なんて、大体は汚いものだと思うけどね」

「そうかもね」

 はじめて見るわけではなかったが、少年の顔は相変わらず端正だった。少女は恥ずかしさを隠すように親指をぴんと立てて、何も言わずに少年の方へぐっと拳を差し出した。少年は微笑むと、同じように親指をぴんと立てて拳を差し出した。二人の拳が一瞬だけ触れ合った。


「こんばんはー」

「こんばんはー」

 原付に乗った警察官がヘルメットを外すと、まっさきに二人のもとへと近づいて来た。二十二時を過ぎると十八歳未満は条例で外出を禁じられている。罰則の対象ではないが、警察官は高校生くらいの子供を見かけたら、声をかけざるをえない。

「ごめんね。身分証見せてくれる」

「はーい」

 少年少女は素直に従う。というのも、彼らは十八歳以上だからだ。免許証と学生証をそれぞれ出した。警察官はそれを受け取ると、生年月日を確認して言った。

「はい、ありがとう。もう遅いから帰りなさい」

 おざなり警察官はそう言ってから、もう一度少年の方を見た。

「君、マスクを持っていないのか」

「持ってます」

「なら、しなさい。君を守るためだ」

 警察官の言葉の意味を、少年は半分しか解さなかった。ウイルスから、ではなく周囲の目から守るため、という意味を半分込めて、警察官はそう言ったのだ。少女のほうはそれを理解していたのか、迷う少年に、横目で見ながらうんと頷いた。そもそも不平を口にしたのは少女で、それを受け入れたのが少年だった。それまで少年は、マスクを外す気などなかったのだ。

 少年はマスクをした。

「家は近く?」

「はい」と二人は声をそろえた。少年の家は原付で十五分ほど、少女の家は自転車で五分ほどだった。

「なら、送ってあげなさい」

 警察官は、少年だけをしかと見て、言った。

「はい」

 今度は少年だけが答えた。


「どうしてあたしが送られる人で、あなたが送る人なの」

「パターナリズムの象徴みたい」

「なにそれ」

「男性中心主義の表れだよ」

「よくわかんないけど、なんかむかつく」

「じゃあ、君が僕を家まで送ってくれるの?」

 少年にそう問われて、少女は少し考えた。原付に乗る少年を家まで送るというのも億劫だ。そもそも、それぞれが勝手に家に帰ればいいではないか。

「送らない。だから、あなたもあたしを送らなくてもいいんだよ」

「そう。じゃあ、二人とも帰るとして、もう少し長く一緒にいるためにはどうしたらいい?」

 と、平気でそういうことをいってくる少年に、時々少女は辟易しながらも、照れ、やはりむかついた。心をたくみに操られているようだった。

 コンビニの店員は熱心にフロアの掃除をし、外の二人を少しも気にかけてはいない。このままここにいたところで誰も文句はない。ただ、警察官が循環して戻ってくる頃にいたならば、今度はもう少し面倒になるだろうとも思った。

 少女は自転車のスタンドを外し、サドルに跨った。

「送って。でも、ゆっくりね。あたしは自転車だから」

「なら、僕が引っ張ってあげるよ」

 街灯が煌々と二人を照らした。原付に乗った少年は、右手でバランスを取りながら、左手で少女の自転車のカゴに手をかけ、慎重に速度を上げた。

「いや、ちょっと待って——」

「行くよー!」

 少年は少女の言葉を聞かなかった。速度はぐんぐん増していく。時速四十キロに達すると、ようやく少年は手を離して自転車と並走した。風が少女の髪をなびかせているのを、薄暗い中でも見てみたかった。案の定、それは美しかった。

「どう、気持ちいいでしょ!」

 少年は声を張った。

「うん。まあまあ!」

 少女も声を張った。

 原付のエンジン音が二人の会話の邪魔をして声はよく聞こえないはずなのに、ブルンブルンという震えが、互いの鼓動の音のような気がした。数メートルおきに設置された街灯の光が、近づいたり遠ざかったりするたびに強まったり弱まったりする速度が、周期的に光の強度を変化させる変光星のようだ、と少年は思った。

 二人にとっては一瞬の小宇宙旅行だった。少女の家に辿り着いた。

「いつも通り、遅くなっちゃったね」

「んま、うちの人は気にしないから良いけど」

「うちも」

「じゃあ、またね」

「うん。次っていつ入ってる?」

「ん、明日」

「じゃあまた明日だね」

「うん、また明日」

 そう言って、少女は自転車を門の中にとめた。少年はその姿を見守っていた。少女は家に入る前にもう一度門の外へ出た。

「今度、後ろに乗せてよ」

 暗いなかで少女の家がうっすら青く光るのが見える。空色の家、といってたのはこのことか、と少年は半ば上の空で少女に向かってうんと頷いた。

「それとも、今にする? 前からさ、川、のぼってみようと思ってたんだ。ずっと」

 水の流れるもとを辿りたいと漠然と考えていた少年は、少女にそんなことを提案している自分に我ながら驚きながらも、少女が少年と同じように、うんと頷くことを期待していた。夜気に残る微かな昼の熱が、ふんわりと少女の髪を撫でた。甘い香りが少年に触れた。夏休みは終わった。夏はまだ終わらない。少女は頷いてから、閉めたはずの門を、もう一度開いた。

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