インテグラルの夜

「時々、君をばらばらにしたい」

 セーラー服姿の背の低い少女が振り返ると、短い髪がふわりと揺れた。手に持ったアイスは半分溶けて垂れてアスファルトを濡らしていたが、さほど気にならないらしい。手もべたべたするだろうに、ともう一人の少女は、ショーウィンドウに映る自分と彼女を見た。髪が長い。背中までだらんと垂らした髪はもうすぐ腰にまで届く。なんとなく伸ばしていたはずのそれは、今では少女を特徴づける大きな要素になってしまった。意図せず。長身、長い黒髪。そんなことで私を枠に押し込めないでくれ、と思いながらも、適度に奪われた自由すらもなんとなく受け入れてしまった。それは、第一義的なことではないから。

「また、物騒なことをいいますねえ」

「えへへ」

 無邪気な少女の笑みが、言葉が持つ剣呑な意味を削ぎ落として、ばらばらになるのも、悪いことではないような気がしてしまう。細分化された私、というのを想像してみて、どこまで自分を細かくすれば自分ではないなにかになるのか、あるいはどこまで大きなまとまりになれば自分が自分であると確信できるのか、長身少女はそんなことばかり考えていた。

 だからこそ、低身少女はそんなことを言った。

 持ちつ持たれつの関係、少女は互いに少女の要素を成していた。であれば、少女は少女である、と言えるのではないかと、少女は思った。互いに。

「うちらって、どこまでバラせばうちらじゃなくなるのかって、気になるじゃん」

「うん。気になる。あたしたちから性別を奪ってみる。学生という身分を奪ってみる。名前を奪ってみる。家族を奪ってみる。好きな俳優、アイドル、歌手、作家を奪ってみる。国籍を、肌の色を、記憶を、未来を、奪ってみる。ぜんぶぜんぶ削ぎ落としてみる。そうしてなにが残るのかってこと」

「なんも残らんべ」

「ん。なんも残らんかもな」

「ん」

 奪うものに友は含まれなかった。


 田舎町、と呼ぶには田畑もなければ駅の近くは案外栄えているし、かといって都会と呼ぶほどには人も物も溢れてはいないような半端な町で少女たちは育った。

 小中高と同じ。五人か六人くらい、同じだった。そのうち、ずっと一緒なのは二人だけ。二人だけが、二人だけが特別だと思っていたが、他の四、五人はまた、四、五人だけがなにか特別だと思っていた。

「うちの人生の主役はうち。自分中心で何が悪い」

「傲慢は嫌われるよ」

「嫌われるのを恐れて行動して、自分を捨てるな馬鹿者、若者」

「タメやろが」

「んあ、そうな」

 駅から二丁目の公園まで一緒に歩いて、暇と空きがあればブランコに座ってしばらく喋ってから帰る。それが放課後の決まった過ごし方だった。

 公園の砂場で子供が遊んでいた。幼い男の子は、少女たちには見えない誰かと話しながら、城と呼ぶ砂の山を築いていた。砂場の縁にハクセキレイが降り立ち、お尻をふりふりしながら歩くも、男の子は気にもとめない。城を攻める悪魔の使いかもしれないのに、と少女たちは思った。

「いつだって敵はいるからね」

 正しさに対立するのはいつだって別の正しさなのだ。

 夏はアイスを食べる。アイスは甘い。風が吹くと、長身少女はよく知った香りが鼻に触れるのを感じた。いつも隣にいる少女のシャンプーは、六年生の時に変えて以来、ずっと同じものだった。

「城を失った王は、果たして王と言えるだろうか」

「玉座を持たぬ王は、王と言えるだろうか」

「国を持たぬ王は、王と言えるだろうか」

「それでも王は王なのかもしれないと、あの男の子を見ていると信じたくなるね」

「ん」

 英語の授業で習ったintegrateという語やdifferenciateという語と、数学で習ったintegralやdifferencialは同語源だという。

「分解すること、区別すること、差異を見出すこと、線を引くこと、輪郭をとらえること。統合すること、連関を見出すこと、一つに纏めること、要素を埋めること。無数の変数を持つ私たちは、分解することなどできないと同時に、統合された私たちのうちには無数の変数を持つから、それは一つとして見ることもできないのです」

「って、言ってたね」

 数学の教師はちょっと頭がイッてる、というもっぱらの噂だったが、二人の一番のお気に入りでもあった。彼の言葉の一つひとつを、二人でdifferenciateしてintegrateして、二人だけの解釈を見出すことができた。

「うちらの要素って個別に物差しを設ければ変数として測定可能だけど、そうして得られたを統合してみても、きっとそれは別のなんじゃないかって思うわけ」

「ん」

「うちが君をばらばらにしたいのは、それ故」

「そして再統合する」

「そう。ばらばらにした君を統合した時、君が君ではないなにかになるのではないかと思うから」

「そうして統合できるなら、きっとは簡単に複製できるし、繰り返せる」

「そう。そうして唯一性が失われる。つまり、うちらに意味なんかないんじゃないかって、そういう気持ちになるのさ」

「あたしの肉体の中心から、意味を掘り出そうって魂胆ね」

「そう。君にしかない君だけの君をそこに見出そうって魂胆」

「それはまた」

「それはまた、ねえ」

 神経のたかぶる黒い甘いどろどろとした泥濘のような重たい空気がたちこめて、呼吸するたびに澱となって肺の底に沈んで横隔膜を下方へ強く押すような気がした。夕闇が遠い空で橙と混ざり合いながら今日あったはずの二人の一日を洗い流して、二人が二人である根拠を奪っていく。黒い甘いどろどろした泥濘のような重たい空気だけが夜を満たして、世界を窒息させる。そんな夜を求めている。

 低身少女がブランコから立ち上がった。

 日は沈み、完全な夜が二人の間に闇をさしこんだ。長身少女は片割れを見やった。彼女は背後に街灯の光を背負っていた。黒い短い髪は艶やかに輝いていた。肌は闇に青白く光っていた。一歩、また一歩と近づいてくる。ブランコ間の数歩の距離が永遠にも思えた。届いてしまうことが恐ろしく、届かないことがなおさら恐ろしかった。夜の闇が恐怖を和らげた。少女が少女に触れた。

「いつかうちらは死ぬ。だから今を生きるの」

「ああ。カルペディエムってやつね」

「Carpe diem quam minimum credula postero」

「『明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め』とwikipediaには書いてあります」

「それを忘れたらおしまい」

「おしまい。数学の教師だけは、知っているんだろうね」

「どかな」

「どだろね」

「ね」

 小さな手が頬を撫でた。嫌な気はしなかった。少年が築いた城はとうの昔に崩れていた。あれから長い年月が経ったのだ。さっきの出来事とホラティウスの生きた時代とに差異はない。differenciateしてintegrateすればそこにあるはずの一回性において存在の有意義性が担保されるのだ、と長身少女の脳内では言い訳のような意味不明な言葉がつらつら溢れ出した。言い訳なしでは、彼女はこの関係を受け入れられなかった。

「だって、知ってたでしょ」

「知ってたし、そっちも知ってたでしょ」

 散った紅葉が錦のように地面を埋め尽くして、赤一色を濡らす雨ははじけてすぐに蒸発した。色の薄い水溜りに浮くカラスの羽が虹色に光るように、世界は夜に近づきながら、世界はその鮮烈さを極めていく。夏に舞った蝶がとうに死んで、秋に泣いた年のことをもう忘れて、少女たちは一年で一つずつ歳をとることを恨んだ。互いの美しさを知っていた。花びらをかぞえてそれを言葉に写しとることでしか、正常な精神を保てそうになかった。傘がない。ふたりはずぶずぶと濡れた。不確定な光の粒がそこにあるなしの区別などつけずに曖昧さと蓋然性とを披露しながら、今はもう死んでいるかもしれない星を、雲の向こう側に見た。

 唇が重なる。冷たい。死んだらきっと、こうしてキスも冷たいのだろうなと、同時に思ったことを二人は知らないまま、死ぬ。でもそれは、少し先の話。今はただこうして、重なる唇のほどくための温かい弁解を探して、幻想に飲まれてしまわないように、常識的な言葉でことを荒立てないのが得策だと納得させるしかしかたがないのだ。青は虚しいほどに甘く、赤は寂しいほどに熱く、甘い夜の黒だけが、ふたりにとって真に慰めとなる。

「だから、おやすみなさい」

「ん。おやすみ」

 罪を背負ったかたつむりは、昨日と今日と明日とを区別することなく統合された時間軸を高速近くで駆け抜ける。終わりから逃れ続けるために。

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