届かぬもの

 四十雀が百日紅の実を啄むのを、女は雨の中で見ていた。越して来た町の役所で見つけた百日紅と四十雀だけが、女にとっては馴染みのあるものだった。なのに、歩くうちにどの光景も、どこかで一度見たことがあるように思えてくるのが不思議だった。電車を降り、地図も見ずに足を向けた先に役所はなかった。以前二年ほど住んでいた町に、似た駅があった。そこは改札を出て右に折れ、しばらく歩いて突き当たりをさらに右へと行くと、左手に役所がある。この町は逆らしい。改札を出て左に折れ、道なりにまっすぐ進んで突き当たりを左に曲がると、右手にあった。はじめて訪れた町で、記憶を頼りに歩いてはいけない。女は学んだ。そして、そこで百日紅を見つけたのだ。


『もうすぐお彼岸だというのに、百日紅が鮮やかに咲いています』


 SNSにアップした写真にはハートが三つ付いただけで呼吸をやめた。次々とTLに並ぶ言葉や動画、写真の山に埋もれて、深い電子の雲のなかへと沈み、鮮やかな紅色など初めからなかったかのように、ダークモードの画面が白い文字をちかちかと光らせていた。

 新しい土地を訪れて最初にすることといえば、まずは拠点となるスーパーやドラッグストアを探すことだった。役所の帰りに気まぐれに駅の周りを歩いて、近くには一店舗ずつ、スーパーとドラッグストアを見つけた。二駅移動すればショッピングモールがある。買い物に困ることはない。

 荷解きは概ね済み、水道やガス、電気などの連絡も済んだ。ブックエンド代わりに、本棚に本と一緒に位牌を並べた。本が好きだっただから不満はないだろう。位牌の表で、金色に光る本がぱらぱらとページを広げて羽ばたいている。位牌にそんなものを望む男を思い出して、ふっと女は思わず笑った。


『うちの人は、本に埋もれて喜びのあまり泣いています』


 ハートが六つ付いた。それもまたTLの中にすぐに沈んだ。



 女は意味を探している。

 友人たちの言うがどういうものなのか、しっくりこなかった。ファンである、や、応援している、というのが近いのだろうが、それにしても女の経験にはないものだった。

「推しがなくて、尊いものがなにもなくって生きるのってしんどくないの」

そう尋ねられても、

「ん、わからない。そういうのがいたことないから」

と答えて煙に巻いた。

 嫌味なのか、心配なのかもわからなかった。自分だけが周囲の人間とは違う生き方をしているのだと漠然と不安を感じることはあった。それですら、生きているなかで見つける小さな喜びを前に、刹那に消えてしまった。悲しみも苦しみも、喜びも楽しみも、女のとっては絵の具を水で薄めたあわい水彩画のようなものだ。

 なにもかもが、くっきりとは浮かび上がらない。

「でさ、そろそろいいんじゃないの」

 という言葉は蝶のようにふわふわと宙で不安定に揺れながら、女の耳にとまった。

「そろそろって、なにが?」

「なにが、じゃないでしょ。あんた、もうすぐ三十五歳でしょ」

「あははは、そっちだって同じじゃん」

「だから、そういうことじゃなくて」

 地元に帰ると、知己の友は異口同音にそう言った。子供はいなかった。作ろうと思ったこともあったが、どちらに原因があるかなど調べる気にはならず、なんとなく諦めてしまった。もう子供を持つことはないのだろう。

「子供はともかく、結婚は考えたっていいんじゃないの」

 女はと曖昧に返事をして済ませた。

 自分がもう若くないとは知っているが、人と出会うのに若い必要があるのだろうか、とも思う。年齢が自分にとってどのような枷となるのか、うまく理解ができない。

 に時間や労力や経済力のほとんどを費やしていた同級生たちが、年齢を重ねるに連れてそれらを削ぎ落とし、いつのまにか家庭を築いていくことに全身全霊を傾けている理由もわからない。

 羨ましくも思えたし、なんとなく残念だとも思った。女の知らない感覚の海に溺れている友人たちは、拘束のなかで喜びを感じているように見えた。


 新しいアパートの西の方角に、大きなゴルフ場があった。その脇に狭い路地があり、車通りがほとんどなく、まつぼっくりがごろごろと転がっていた。

 キャンプをするというのに彼は、文庫本ならまだしも、ハードカバーの書籍を十五冊も持ち込んだ。小さな段ボール箱いっぱいに詰め込んで、車の後部座席に載せた。まつぼっくりは火おこしに使えるよ。そう教えてくれたのも彼だ。生活のあらゆる断片に彼は生きている、と女は思う。散歩をしても、朝にコーヒーを飲んでも、窓を開けて湿り気のある空気を胸いっぱいに吸い込んでも、そこに彼がいる。深い海でイルカと泳ぐ夢を見た。追いすがるような陰気臭い小走りで彼から遠ざかろうとする試みはつらいだけで、いつも暗い黒い空に押しつぶされそうになった。


 朝と夜の境界線を探しているのは女だけではない。生と死の境にいるような老人たちはいつも、その時間になると道をうろつきはじめる。ごくまっとうで正当な、矍鑠とした老人たちだ。それがどうもこうして朝から動き回るのだろうと考えてみればひとつの答えに行き着く。

 眠りへの恐れ。

 眠りを仮想的な死と位置付けた者たちは、眠りそのものを拒みながら朧な生を享受する以外に選択肢はなかった。朝から光のうすいなかを放浪する老人たちの希望はただひとり、レイ・カーツワイルのみだ。煩わしい猥雑な罪に似た休日の雨をすかしてはるかアメリカを見渡してみても、ほんもののそれを見出すことは不可能だった。そこにある火は遥か遠くから見た希望のように小さく、誰もがスマホを手にして写真におさめようと試みた。弱すぎる光は瞳でしかとらえられなかった。そこに温もりを感じられるのは、誰もがからだ。

 朝と夜の狭間は、いつだって女の味方だった。


 死んだ季節、もうすぐ冬がやってくる。

 白しかない絵具を買った。白は白一色ではなく、雪の白と白漆喰の白と雲の白とでは同じではないのは当たり前で、細かな白の差異を見極める瞳が必要だと、ほとんど見えなくなった右目を義眼にかえたのは、少しやりすぎであったと思う。そう言って彼は、死んだ芸術家に対する憧れと嫉妬を綯い交ぜにして、高めた温度を自らの死で飲み込んでしまった。

 ありがとう、という感謝を彼に告げるべきか死に告げるべきか女は迷ったあげくに、おざなりに生にその言葉を差し出した。降らない雪が月のない空に、青く光っている。

 シリウスが女の嘘を見破り、心の奥底の熱を静かに燃やした。からっぽの器を満たそうとして増殖する憎悪と嫌悪がいつまでもくすぶっているのを知っているのは、みずからのなかに不純物を感じるからだ。それ込みで人間。汚れている。その私を肯定しないで、いったい誰を肯定できると言うのだろうか。女が生きずして、誰が死んだ夫を思い出すと言うのだろうか。

 青い。海も空も青い。退屈な月曜日の夜の空にはカストルもポルックスが仲良く並んでいる。

 冷たい。空気は凍りついて天地をつなぐ梯子になってくれるかもしれない、と起こり得ないことを想像して穴を埋める。

 手紙を書くことにした。紙の上につらなる蛇のような文字の数々が、ほとんど意味をなさないまま、女の手で綴られていく。文字。意味のない言葉。そんなものがこの世界にありえるのだろうか。言葉。意味のある言葉。生きたあなたがもういないとしても、あなたが生きた意味を信じられるのが私だけなら、私がいなくなった世界であなたの意味は消えてしまうのだろうか。

 記憶のあわいから漏れた言葉は、空に向かってつぶやくようなささやかな祈りだった。届け。届け。届かぬと知りながら投げる言葉の虚しさをも知りながらやはり女はただ言葉を投げるために、手紙を紙ヒコーキにして、飛ばす。角の公園のからたちの垣を越えたら、きっと届く。女はただ、そう決めた。


『だから、今日も手紙を書いています。空に向かって』


 ハートが一つ。すぐについた。

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