左足

 体の芯に近い筋肉や関節、骨、腱、靭帯が限界強度ぎりぎりまで引き絞られる低い呻きを聞いた。最大の力を瞬間的に放つという繰り返し、その連続したハイテンポのリズムから彩り豊かな旋律をなぞる軽やかなステップで無数のディフェンスを置き去りにして、ピッチを縦横に切り裂いていく。男の左足から放たれたボールは緩やかな弧を描いて、予めレールが敷かれているかのように滑らかに宙を這って、ゴールポストとキーパーの指先の隙間を抜けると、ゴールネットを優しく撫でた。

 肉体の呻きを聞く前から、男にはその光景が瞼の裏側に映っていた。予知と言えば大袈裟だが、男は大抵そのイメージを現実にした。チームメイトは同じ未来を同じ現在に見ることになった。正確には、男が見た未来を現実としてチームメイトに対してパスやドリブルで見せる、といったところだ。そうでしかありえない現実。そうなることがあらかじめ決まっていたかのような現実。見た未来を引き寄せてしまう、その男の左足には、山羊が彫られていた。ゴート[Goat: Greatest of all time]、史上最高の選手と称されるに相応しい比類なき記録を残し、人々が忘れることのできない鮮烈な記憶を刻み続けた男の左足にも、いずれ終わりが訪れる。盛者必衰は世の常とは知りながらも、見る者は魅了され、真善美という幻想を信じてやまない。男も同じだ。まだ、その感覚を捨てるつもりはなかった。

 長年所属したチームを離れた。何度も試合をしたスタジアムに、馴染みのある街。男は幼少期を過ごした街の地図とともに、第二の故郷といって差し支えないその場所もまた、彫刻として体に残した。肌の露出した箇所を全てタトゥーで埋めるつもりなどなかったが、節目ごとに増えていく記録が、余白を奪っていった。

 男に家族はない。前の街でも独りで生きて来た。新しい街には試合で来たことがあった。気軽にレストランで食事をするようなことはできないものの、歴史ある街の空気も、人も、環境も、嫌いではない。以前いた街と同じように、行き交う人々の胸の奥に秘めた熱を感じた。美しいもの、魅了するもの、心惹かれるもの、平坦な日常に突如としてあらわれる、そんな美しさに対する欲望の対象として、男はその場所にいた。共に生きるものもなしに、苦悩を打ち明ける友もなしに、たったひとりでその場所に立っていた。

 芝を踏む感触をスパイク越しに感じる。柔らかい長めの芝。沈み込むような感触があった。関節への負担は小さい分、筋肉疲労が溜まりやすい。監督に提示されたゲームプランを、頭の中でゆっくりと分解し、自らのプレーへと落とし込む。単純。男は常に決定的な仕事を求められる。ゴール、アシスト、セカンドアシスト。パス成功率やドリブル成功率、デュエルの勝率、走行距離などのスタッツは二の次だった。なによりもゴール。ゴールに結びつく仕事をすること。監督が男に求めるのは常にそれだったし、男がプレーするなかで求めているのも、ボールがゴールラインを越えるその瞬間の、頭のてっぺんから足の指の先まで血が沸き立つような熱い感覚だけだった。何度も経験した。一瞬の静寂。皮膚を破って血が漏れ出し、濃厚で生々しい熱を全身に纏う。そのねっとりとした薄い膜は、あらゆる感覚を無にしてしまう。コンマ数秒。音と光を失う。独りだ。自分は独りなのだ。広い宇宙に放り出されて、完全な孤独を生きているのだ。と、その生温かい膜を突き破って、怒涛のような歓声がスタジアムを震わせていることを知る。ゴール。この喜びを味わうことのできる地球上で数少ない人のなかで、最もその経験を多くした男は、それでもなお、再び同じ熱を感じたいと青々とした芝を駆けた。まるで子供のように。なんの衒いもなく、無邪気に。ゴールだけを求めて。

 後半途中からの出場で、徐々に体を空間に溶かしていく。スタジアムの空気と一体化し、チームメイトの意図や感覚、調子の良し悪しを感覚的に測る。ボールを受けた途端、背後に気配を感じた。ワンタッチではたいた。長く持たせてもらえないことなどはなからわかっている。体の感覚は悪くない。男は二度、大きな怪我をした。運がいいことに、三十歳を超えてからはまだ三ヶ月以上離脱するような怪我をしていなかった。怪我をしないためのプレー、体の投げ方、倒れ方、ボールを離すタイミングを熟知している。なにより、自らのコンディションの把握力に優れていたからこそ、世界の頂点に立ち続けることができた。だが、なにかがおかしい。

 男は何度かワンタッチで叩いた。厳しいマークがつくことはわかっていた。だが、微かに感じるずれが、どうにも修正できない。チームメイトは常に男を見ていた。一瞬でもフリーになれば、パスが入った。その度に、男はワンタッチでボールを叩いた。集中。十一対十一でゲームを行うなか、一人に注目が集まりすぎると、全体のバランスが崩れる。このずれを経験したのはこれがはじめてではなかった。男にまたボールが入った。わずかなスペースがある。男にはそれで十分だった。

 トラップとともに相手の体重を一度受け止めてから、体をボールの来た方向へと流した。と同時に相手はすかさず追い縋るが、体を左右に二度振っただけで、簡単に引き剥がして前を向いた。重心の移動に合わせて相手も反応するものの、テンポがまるで違う。男のステップが三つ踏まれる間、ディフェンスは二つ踏んで三つ目の足が浮く。重心が浮いている間は当然、移動ができない。男はするりとかわした。

 ギュウ、と軋みが聞こえる。いつもの音。限界まで力が出せている。叫びにも似た肉体の呻きを、ボールに触れた瞬間の歓声がさらりとかき消してしまう。

 置き去りにしたディフェンスと、カバーのディフェンスの二人に囲まれるが、既に見えていた。男は一人目を抜く瞬間には、二人目を置き去りにする流れを感じていた。ディフェンスラインにぴったり合わせた位置に、長身のセンターフォワードがいた。そこにグラウンダーのボールをつける。その間に逆のサイドバックが高い位置を取る。ウイングにボールを叩けば、サイドで二体一の局面が作れる、流れるような攻撃だった。

 タクトを振るうのは指揮官の役目だが、外から見ている監督より、男の視点の方が俯瞰に近い。それも、ボールを持ちながら、だ。単なる点取屋の域を大きく越え出てゲームメーカーの役目を果たすのは、絶対的な視野の広さと状況判断の適切さ故だ。だが、違和感がある。長身のフォワードにあてたボールは、彼の懐におさまった。そして右半身で相手を遠ざけながら、左足でウイングに流した。サイドバックはすでに高い位置を取り、相手が外にポジションを取ると、ボールを受けたウイングは、すかさず中へカットインし、反応の良いディフェンスを逆手に取るようにして半テンポずらしてサイドバックにパスを出した。相手のディフェンスの深い位置、ちょうどペナルティエリアのラインとゴールラインが重なるあたりからクロスをあげると、ピンポイントで中央の長身フォワードが頭で合わせた。

 ゴールの刹那、スタジアムが歓声に包まれた。男のトラップ、ドリブル、パスが起点となったゴールだったが、納得がいかない。思い描いた映像よりも二歩ほど遅かった。リーグのレベルが劣るからか。チームにフィットしていないからか。イメージが先走りすぎていたのか。

 ——違う。

 誰もがゴールではなく、男ばかりを見ていた。第一に目指すべきはゴールであるにもかかわらず、視線が一度、ゴート——Greatest of all time——に向けられた。その視線のわずかな揺らぎが積み重なって、イメージと二歩ずれた。

 ——崩れている。

 三点差で勝利し内容も圧倒していたが、男はインタビューには答えず、喜びを溢れさせる仲間たちをピッチに残して、ひとりロッカールームへと消えた。

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