少年少女

"あらゆる存在は一度だけだ、ただ一度だけ。一度、それきり。そしてわれわれもまた一度だけだ。くりかえすことはできない。しかし、たとい一度だけでも、このように一度存在したということ、地上の存在であったということ、これは破棄しようのないことであるらしい。"

『ドゥイノの悲歌』 R.M.リルケ


 少年は教室の窓辺の席に座って、誰もいないはずの中庭を見下ろしていた。開いた窓からは、まだ微かに夏のぬくもりを抱いた風が吹き込み、彼の額をなでてから、ふわっと教室に甘い香りを運んだ。それがどんな花か、少年少女は誰も知らない。

 夏が何気ない仕草で誘う嘘のような青春は去り、秋の艶やかな彩りがもたらす物憂さはまだここにはなかった。中間。季節の境目に彼らはいた。

 窓辺の少年の視線の先になにがあるのだろうかと、気になっても声をかける勇気を持つものもいなかった。侵すことのできない独特の雰囲気に包まれた空間に立ち入るには、中学生の劣等感と自意識過剰が邪魔をする。人間本来の無遠慮と無邪気さがなければ、それは適わないが、それほど子供である中学生はクラスにおらず、それほど大人である中学生は同じようにクラスにいなかった。

「なに、見てんだろうな、あいつ」

 よく日に焼けた黒い肌が、半袖の下にのぞいていた。夏休み明け、外の部活の運動部員は誰もが真っ黒に焼けていた。肩まで袖をまくる生徒たちは、くっきりと日焼けの線が見えた。元はそんなに白い肌をしていたのかと、対照の明らかなことに驚くのは、文化系の部員だった。彼ら知っていた。運動部員が肌の下に隠しているものを。外で駆け回る太陽の申し子たちは、夏の焼けるような日差しも、冬の抱きしめられるようなぬくい日差しも、表面ではなく、しっかりと肌の下で、常に燃やし続けているのだ。となれば、肌の色は関係なかった。

 少女は楽器を机の下に押し込むと、端を脇のフックに掛けた。脇にそのまま掛けると蹴られることを知っていた。大切なものは、懐に隠すべきなのだと、中学生までの短い人生のなかで、少女が確かに学んだことだった。外にむきだしにしてはならない。傷つきやすい。無防備ではいけない。自分を守ることもできないのに、自分以外のなにかを大切になんてできやしないのだから。

「さあ、本人に聞いてみればいいじゃん」

「ああ」

 肌の黒い少年は口ではそうは言ったものの、少しも動こうとはしなかった。紙パックのオレンジジュースを飲み切ると、机五つ分ほど離れたゴミ箱へとそれを投げた。回転しながら放物線を描いて、するするとゴミ箱へと吸い込まれていく寸前、窓から風が吹き込んだ。軌道はわずかにずれ、紙パックはゴミ箱の縁にぶつかって床に落ちた。からっと乾いた音が鳴った。

「ゴミ、投げんなよなー」

 よく見知ったクラスメイトがそれを拾い、捨てた。まだ少し暑いせいか、クラスメイトの頬はほんのりとピンクに染まっていた。夏の終わり。秋の始まり。どちらでもない半端な季節に、半端な中学生たちは、半端な思いを抱きながら、今日を生きていた。

「ああ、悪い」

「へたくそ」

 隣にいた女子と、ゴミを拾った男子が同時に言った。二人は互いに見合って、真似すんなよ、と、また言葉を重ねた。肌の黒い少年はそんな二人のやりとりを微笑ましく感じながらも、窓辺の少年から視線をはなすことはなかった。


 一人でいるから孤独である、ということではないことくらい、中学生になればわかる。はたからは孤独に見えるかもしれないが、落ち着いた、満ち足りた表情で中庭を見下ろす様子に、寂しさは感じられなかった。彼を見ながら、それは憧れという言葉が相応しいのではないか、と少年は思った。少年が少年に憧れているだけではなく、中庭を見下ろす少年の瞳にも、かすかな憧れが宿っている。漠然とした無根拠な確信があった。

 自分の持たないもの、自分の知らないもの、感じたことのない世界がいつもそこにある気がする。彼を通してならば、自分にもそんな世界が感じられるのかもしれない、と期待したりもする。


 だから憧れ。


 ネットで見るスポーツ選手の躍動する姿に憧れるのと、同じようでどこか違う。日々の鍛錬で磨耗して燃え尽きる命のような美しさはなく、夢現の境界を廃して自らを時空間のほだしから解き放つような自由を享受しているものの、真に迫る瞳だった。それは空より澄んで、夜よりも海よりも深い。黒が美しい色だと知ったのは、彼の瞳をはじめてのぞきこんだ日からだった。見ているうちに沈みそうだと思った。足先から冷えて感覚のなくなる冬の朝に、氷のようにつめたい水に少しずつ身を沈めたなら、きっと心地よさも苦しさも感じるでもなくなんとなく気がついたら同じ温度になっているのだろうと思う。それなのにいつまでも頭は冴え、思考はめぐり、さらに先へ、さらに先へと自らを追い立てるような声だけがやまない。負い目を感じながらも、倒れる人々を置き去りにして、それでも前へと進む勇気が欲しいと願いながら、自分を救うために知らない誰かに手を差し伸べては、「大丈夫ですか」と声をかけている。本当に声をかけて欲しいのは自分なのに、苦しいのは自分なのに、誰かを助けることでしか、自分を救うことのできない不器用な生まれを憎んでも憎み切れないほどに憎い、そうして刃を自らの胸に向ける精神的な自殺。相対的な価値から逃れて自分を見ようとあらゆる物差しを捨てた瞬間にが消えた。河原で死んだふりをした鼠を見つけて、醜態を晒した間抜けな姿に自分を重ねた。その瞳はどうして深いのだろう。

 いつか訪れるはずの純然たる静止を信じる彼はなによりも強い、と少年は思う。彼の信じている宇宙は学校の中庭程度の広さしかないとしても、それは少年や少年以外の多くの世界よりもはるかに広い。思春期まっただなかの彼らにできることといえば、涙をためた透明な瓶になにも書いていない手紙をたくさん詰めて、広すぎる海に流して誰にも届かないことを願うくらいのことだけだった。

 誰も私たちの苦しみを知らないでいてください、と。ほんのささやかな願いをのせて。


「ねえ。なにぼんやりしてるの」

 窓辺の少年を眺める少年を、眺める少女が少年に問うた。

「ん、見てる」

 少年は振り向くことすらなく、答えた。

「ふーん。そっか」

 少女はつまらなそうに言った。

 秋になるまでに、恋の物語が形を変えることを期待して、勇気を振り絞って声を掛けてみたのに、少女の期待するような未来はどこにもなかった。少年の黒い腕に血管が浮いて、行き場のない熱い血液が今にも溢れ出しそうだと思った。とらえどころがない感情が一瞬だけ強く湧いて、すぐに消えた。少女は、少年の見る窓際の少年の、さらに視線の先にある空を見た。色は青く、雲は速く駆けていた。

「風、強そうだね」

「そうか。そんなふうには見えないけど」

「それはさ。あんたが——」

 ふわりと吹き込んだ風に、まだ青々としたオニモミジの葉が一枚混ざり込んでいた。青いまま散った葉は、ちょうど窓辺の少年の机に落ちた。それを見ていた二人は、思わず息を飲んだ。

 雲はさらに走り、少年が窓を閉めると、それを合図に雨が降り出した。季節の境界線にはいつも雨がある。全身を自らの内側に押し込め、心が濡れないようにと分厚い外皮で隠してしまう。冷たい空に近い温度のそれは、まだ青いままの少年少女を誘う雨なのかもしれない。少女はすぐ隣の少年を見やった。次に、窓辺の少年を見やった。単純だけど、耐え難いほどの日常からの乖離が、少女の胸を引き裂こうとしていた。降る雨粒のひとつひとつが、落ちて、校舎のコンクリートにあたって弾ける。霧のように細かくなったその水滴はきっと、誰かが呼吸した証で、誰かが恋をした証で、誰かがそこにいると叫んだ証なのだと思うと、なぜか居た堪れない思いがした。

「好きなんだろうね」

「え?」

 少女はわざとらしい微笑を浮かべた。有り余るほどの正気が、その状況を明晰に語りかけてくる。雨はいらない。心をからっからに保つために、太陽を持って散歩に出かけることにした。少女は少年たちを恨んだ。羨んだ。病んだ。それでも、最後まで泣かなかった。

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