聖杯の印

 象嵌の施された銀の杯から、翠玉が外れかけていた。男は薄い綿の手袋を着けた指先で、緑色に光る石に触れた。抜けかけの歯のようにぐらぐら揺れた。周囲の銀が僅かに歪み、石との形が合わなくなったのだ。

「これ、どうしますか」

 先輩の聖具師に銀の杯を差し出した。女はそれを受け取ると、無言のまま細い指で翠玉の縁の銀に触れた。女が手袋をしていないのは、聖水で清めた手で直接聖具に触れることの許された数少ない聖具師だからだ。

「直し。目録に記録して」

「わかりました」

 大きな作業台へ聖杯が置かれ、上部のランプに照らされた。舞台照明の下で光を浴びる役者のように寂しげだが、どこか凛とすましている。聖杯の美しさ故か、あるいは聖杯の持つ数々の伝説が男にそれを物語るからなのか。いずれにしても、男はこの聖杯をへと無事に送り届けなければならない。そのためには目録に正確に記録を残す必要がある。象嵌の数、彫りの模様、径の大きさや高さ、深さ。記録と僅かでも違えば、真贋が疑われることとなる。重要な仕事だった。

 男は目録に記録を残すと、大鋸屑おがくずの詰められた小さな木箱に、そっと聖杯を横たえた。外れかけた翠玉で聖杯が傷つくことのないよう、その箇所を天に向けて固定した。

 鈍い銀色に光る聖杯の頑としてゆるがぬ背景の物語が、外れかけの翠玉一つでかすかな綻びを見せる。全知全能の神の価値、普遍性や恒常性を担保するには、聖具とあってもその完全性が損なわれてはいけない。男はその仕事に誇りを持ちながらも、信仰の背後に大きな欺瞞が隠されていることには、とうの昔に気づいていた。

「じゃあ、どうしてお前は信仰を捨てない」

 と、女は問うた。

「美しいからですよ」

 ふたりきりの宝物庫で、男と女はそんな言葉を交わした。


 部屋が薄暗いのは、自然光にしろ蝋燭やランプの灯りにしろ、強すぎる光は場合によっては聖具の状態を損なうからだった。とはいえ、暗くしていたからとて、時の経過とともに劣化するものはいくらでもある。その品質の管理、修繕、記録を残すのが聖具師の仕事だ。

「美しさはいつだって、神の証明に十分でしょう」

 男は自信のこもった低い声を、狭い部屋に響かせた。女は共感しかねるのか、薄暗がりでもわかる程度に首をかしげた。

「本当に美しいのかしら。金や銀、数々の宝石、儀式で纏う伝統的な聖衣。華やかではあるけれど、神を証明するような美しさなら、きっともっと他にあると思うわ」

「他に?」

「ええ、例えば——」

 バタン、とにわかに宝物庫の扉を開ける音が響いた。二人は動きを止め、入り口を見やった。襟や袖、裾までピンと綺麗にアイロンの掛かった、皺一つない制服に身をつつんだ、髪の赤い、齢三十頃の男が立っていた。

「目録を見せてもらいたい。火急の用だ。今すぐ用意できるか」

「ちょっと待っ——」

 無理やり入ろうとするその者を止めようと、男が一歩足を踏み出そうとした瞬間、逆に男の方がとなりの女に止められた。

「はい、こちらに」

 闖入者はどうやら都の高官であるらしい。この宝物庫まで入ってきたということは、それなりの者の命を受けてのことだろう、と女は判じた。手に持つ書状が暗示している。普通の書状に、あのように錦で装飾が施されているわけがなかった。

「やんごとなきお方の書状だ」

 女は小声で、隣の男に囁いた。ようやく男も、そのことに気がついた。

 簡素な棚に並ぶにはあまりにも煌びやかな品々を舐めるように眺め回してから、高官は作業台に広げた目録に視線を落とした。終始黙っていた。書状はさっさと女に渡した。女の方ではその内容を確認し、聖具師長の印を押した。宝物庫を管理するものは、印を預けられる。つまり、この空間にいる間は、女が聖具師長の代理ということになる。聖具の状態や、目録に記された通りに聖具がそこにあるかどうか、責任を問われるのは女だった。

「ちょっとな、嫌な噂が流れていてな。ついに直々の通達があったわけさ」

 長い裾をひるがえして振り返ると、まるで我がことかのように、いくらかやにさがるような口調だった。高官にとっては、都からの書状を手に、国の北端にある聖堂を訪れるだけでも、気がたかぶるものなのだろう。いかにも詳細を話したがっているようで、二人は仕方なく相槌あいづちを打ち、話をうながした。

「お前たちのような聖職者には関係のない話だろうがな」

 高官のもったいぶるような調子に、男は嫌気がさした。だが、女の方ではこれも仕事と割り切っているのか、高官の期待に応じるかのように媚びを見せた。

「私たちだってまつりごとへの興味くらいあるんですよ」

「ほう、そりゃ感心だ。じゃあ前世の五大法官を述べてみよ」

 試している、と男は思った。この程度のことを、聖職者たる者が、知らぬわけがない。それどころか、役人如きが聖職者の端くれに知で上回ろうなどとは、なんと傲慢なのだ。無知ほど恐ろしいものはない。男は内心業腹だった。

赤日せきじつ夜川よがわほし砂渦さかりゅう、ですか」

 自然の中の情景を、人間のちまたことわりつかさどるものとして名付けたのが前世——前のみかどの世——の法司だった。法司は、いわゆる法務大臣で、法に関する全てを統括する立場にある。その五大法官の最後の一人は、ふうだった。流はその下の副官にあたる人物だったが、風が五年で世を去り、その地位を空位のまま流がその代役を務めたために、五大法官の一人として流を数えるという過ちを犯すものが多かった。いわばこれは、高官の意地の悪いひっかけ問題なのだ。

「がっはっはっは。なんとお見事。最後の一人を除けば御名答といったところだが、残念ながら流は副官、五大法官を務めたのは風だ。と言っても、実質は流がその役目のほとんどを果たしたのだから、とりあえず正解としておいてやろうではないか。あっぱれだ。ああ。あっぱれだ」

 高官はご満悦だった。男は、女がそんな簡単な罠に引っかかることに、半ば啞然としながらも、苛立ちは高まっていた。

「お恥ずかしい……」

 女は袖で顔を隠した。そしてその影で促すように、隣の男をちらと見た。ああ、なるほど、と男はそこで理解する。無知の振りも相手の懐に忍びいる極意だ、とでもいわんばかりのその微笑に、身内ながら恐ろしさを感じずにはいられなかった。

「で、噂とはどのようなお話で?」

 女の意を汲み、男は高官に尋ねた。この面倒な手筈を踏まずして聞くことはできない。役人たちの性であり、高慢であり、自尊心である。そのことを理解したうえでなお聞き出そうとする女の意図を、男は計りかねていた。それほどまでに興味を引いたのだろうか。

「なあに、ただなあ。ここにある聖杯やら聖衣、聖なる鏡や蝋燭台、そういった道具の数々が偽物なのではないか、とだなあ、そんな噂が立っているのだ。だがやはり、目録を見る限りは単なる噂に過ぎないことがわかった。良い仕事をしておるな。役人に登用したいくらいの丁寧な仕上がりだ」

「それは、ありがたいお言葉で」

 高官は普段はないような珍しい仕事を済ませて満足したのか、役人には珍しい朗らかな笑みを浮かべ、言った。

「権威を失墜させようと、躍起になっているけしからん者がいるのだ。真に力を持つものは、そう容易くは揺らがぬだろうに」

 愚直な人間だ。愚かにも、力が永遠であるという幻想を抱いているのだ。そう思うと、男は高官に、ほんの少しだけ同情した。揺るがぬものは、他にあるというのに。

「おっしゃる通りで」

 ぱたっと音を立てて目録が閉じられると、微かにさすランプの光が、紙の隙間から吹き出した埃を照らした。高官は書状に聖具師長の印が押されていることを確認してから、扉も閉めずに宝物庫を後にした。


 男は扉を閉め、ふーっと息をいた。

「まったくどうして、あんなのに付き合わなければならないのですか」

「聖堂には聖堂のやりかたがあるんです」

「そういうものですか」

「ええ、そういうものです」

 男は不満がおさまらないまま、さっきの続きに取り掛かろうとした。

「ちょっとそれ、待ってください」

 女はそういうと、男が半分ほど大鋸屑で覆われた聖杯の固定を外し、もう一度その外れかけの翠玉に触れた。すると、簡単に緑の玉が抜け落ちた。大鋸屑に埋もれた翠玉を男が慌てて中から取り出そうとすると、女はシッと言って唇に人差し指を当てた。

「ここ、見てごらん」

 翠玉の抜けた穴に、ほんの小さな印が彫られていた。それは王国の刻印に似ているが、どこか少し違う。

「聖堂長の印だよ。聖杯がこの大聖堂のものだと示す、重要な証拠だ」

「それが、どうかしたんですか」

 女はしかめ面で男を見た。不満げに寄せる眉がぴくんと動くと、緊張を保てなかったのか、不意にどっと笑い声をあげた。

「あははははは。君は真面目だな」

「真面目で悪かったですね」

 王国の印には翼がない。それ以外はほぼ同じとなれば、翼を彫り加えれば、王宮の宝物庫にある宝はどんなものでも大聖堂に属す聖具と化す。だが、問題は目録を書き換えることなどできるのか、ということだ。

 男は以前から不思議だった。

 書物といえば巻物であるはずが、なぜか目録だけが分厚い羊皮紙を不便にも一枚いちまい、平で端を綴じたつくりとなっていた。男は頁をめくり、その紙の質感を丹念に調べてみて、はたと手を止めた。

「……私はなにも気づいていないですからね」

「真面目なうえに、臆病ときたか」

 と言って、女は笑った。


 高いところに一つ窓があるだけで、直接宝物庫に光が差すことはない。それでも夜が開けたとわかるのは、光ではなく、空気と接する肌の感触だった。しっとりとした冷たさから、水のなかを泳ぐような重たい感触が一瞬だけ覆い、さっぱり流れ落ちたように乾いた温もりが訪れる。この空気の変化を、男は何度も、隣にいる女とともに味わった。

「ところで、聖具よりも美しいものって、何ですか?」

 ふと、話が途中だったことを思い出して、あらためて問い直した。

「わからない? いつも私たちが、こうして毎日最初に、それを肌で感じるじゃない。しんと静まりかえって、少し冷たくて、澄んで、清い」

「……なるほど」

 高い窓から、ほとんど水平に光が差した。その光に、舞い上がった埃が照らされ、ちらちらと弱い光を散らしていた。水の流れの速度を遅めたら、あんな風に見えるのではないか、と男はぼんやりと思った。

「朝だよ」

「ええ。朝ですね」

 太陽がのぼった。

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