悔い

 娘がサッカーをやりたいと言いだしたのは、隣家の少年の影響だった。彼が小学校へと入学すると、クラスメイトに誘われただとかで、近所のサッカークラブに通い始めた。娘にとっては少年とボールで遊ぶたびに「ハンドだよ、ハンド!」と注意されるのがどうやら気に食わなかったらしい。

「ママも昔やってた。バーバが言ってたんだよ」

 キャハッと娘が笑うのを見て、なんとなく悲しくなった。

「そっか。秘密だったんだけどな」

「どうしてひみつなの?」


 ——どうしてって、どうしてだろう。


 娘はサッカーを始めた。当然女は、何度も娘にボールを蹴ってとねだられたが、一度だって蹴りはしなかった。娘のクラブは男女関係なく所属し、餌に群がる水槽の魚のごとく、少年少女がボールにどっと集まる、なんともあどけないサッカーをしていた。そんなサッカーを見ていて、純粋に蹴りたいなどと思えるものか。かつては世代別の日本代表にだって選ばれたことがあるのだ。プライドもある。子供のお遊びに付き合う気はなかった。

 娘は抜群に目立っていた。単純に肌が黒いだけでなく、ずば抜けて足が速かったし、タッチも軽く、滑らかだった。

 子供の多くは、ボールがあってもただ前に蹴ることしかできない。娘だけが。つまり、ドリブルができたのだ。

 女は母——つまり娘の祖母——と娘の試合を見に行った。教えてもいないのに何故だろう。まるで生まれた時からそのやり方をしっていたかのように足が自然に順々にボールに触れ、バランスが崩れることもなく、走るのとドリブルするのと、とくに差がないように見えた。細かなタッチで小刻みにステップを刻み、リズミカルにすいすいとディフェンスをかわしていく。最初からできたのだろうか。ゴールにはシュートをせず、キーパーまで抜いて、からだごとゴールに飛び込んだ。

「血だよ。あんただってそうだったじゃないか」

「じゃあお母さんもサッカーできた?」

 女は母をからかうように言い返した。だが、母は真面目な顔でいった。

「あたしだってやってりゃ、あれくらいできたろうよ。あんたやあの子より、ずっとうまかっただろうね」

 浅黒い肌の少女はその日、十ゴールを決めてなんともご満悦な表情を浮かべ、帰るの車でぐっすり眠った。あんたそっくりだよ、と母は笑った。


 少女だった女は小学校でサッカーを始めた。ボールがあるのが当たり前で、学校の休み時間も、放課後遊ぶのも、ほとんど男子と一緒で、校庭のゴールはいつだって取り合いだった。ネットが破れてすぐにブランコの方へとボールが転がっていってしまう場所は不人気だったが、少女はそれもトレーニングと思い、何度だって自ら率先して走って取りに行った。

 男子たちをドリブルで抜いて転ばせるのは快感だったし、ゴールを決め、ボールがネットにあたってぱすっと音を立てるのを聞くのが嬉しかった。タイミングを合わせってボールとオフェンスとの間に忍び込ませ、がしっと背中でとどめてデュエルに勝利するのもたまらなく気持ちいい。相手を手玉に取るようにパス回しするのも、思わず口の端に笑みが浮かぶほどの優越感だ。

 そうしたサッカーのすべてが少女を祝福していた。向かう所敵なしだった。


 高学年になっても特に気にかけなかったが、クラスの女子に笑われた。

「いつも男子と一緒にいて、ほんと男好きだよね」「っていうかあいつも男子なんじゃん」「サッカーなんて野蛮だし」という女子たちは大抵、同じクラスのサッカークラブの男子が好きだった。

 その頃から、男子のほうでも少女には近づかなくなった。

 一人でボールを蹴るのはいくらか退屈だった。動画を見てドリブルやフェイントを真似たり、シュートやパスの精度を高めるために、木やベンチを的にしてボールを蹴った。

 だが、一人での練習はすぐに限界を知る。久しぶりに体育の授業で男子とプレーすると、あっというまに彼らに置いていかれていたことを知った。対人のパスは、止まった木やベンチを的に蹴るのとは異なる。動いている人間と対峙するのは、動画を見てタッチやフェイントの練習をするのとは異なる。練習はあくまで練習。パターンを身体に落とし込むだけで、落とし込んだパターンを実践で活用しない限り、本当の意味でその技術は身につかないのだと知った。

 少女はすぐに母親にいって、女子のサッカークラブに所属することにした。プロの下部組織で、セレクションを受けたものの、その実態はほとんど体力テストで、ドリブルやパス、シュート、ゲームなんかはほんの一瞬で終わってしまった。その日のうちに合格が告げられた。学年で一番といっていいほど足が速かった(ライバルはミニバスの女子だった)し、持久走は間違いなく学校で一番だった。それに、技術面でも参加者のなかでは群を抜いていたのだ。

「女子サッカーだってそう甘くはないぞ」

 コーチの言葉は嘘だった。決して男子に見劣りはしなかったが、かといって、レベルが高いとは言い難い。なにせ、プロの下部組織でそのレベルなのだ。一年目、五年生でレギュラーになり、地域リーグの得点王になった。

「パスを覚えなさい。選択肢が少ないと、ドリブルもシュートも怖さがなくなる」

 その言葉の意味を考えもしなかった。少女はゴールを量産し続け、中学、高校と同じクラブのエースで居続けた。

「で、高校卒業したらどうするか決めたのか」

「プロになります」

「プロ契約している選手なんて、世界中でもほんの一握りだぞ。アメリカ、行くか?」

「え?」

 どうしてそれを早く教えてくれなかったのだ。と嘆いたところでもう遅い。女子サッカー部のある、私立の有名大学への進学を決めた。


 大学四年間はクラブでやっていたのとは違い、がむしゃらで泥臭い、随分と荒っぽいサッカーだった。

 違う、私がやりたいのはこれじゃない。もっと優れたボールの供給源が必要だ。得点が欲しい。ドリブルがしたい。アンクルブレイクの瞬間の快楽を存分に味わいたい。もっと速い展開で前にボールを預けてくれれば、あるいはディフェンスラインへの裏へのスペースへボールを放り込んでくれれば、何度だって走るし、点を決められるのに。

 一年でレギュラーを獲得し、二年でベンチになった。三年で登録外になり、四年になるまえに退部した。

「就職あるし。ていうかさ、あんたたち、いつまでサッカーなんてやってるつもりなの」

 足がボールにぴったりと止まる感覚。ドリブルで相手を置き去りにした瞬間の、胸の空くようなすっとした感覚、シュートがジャストミートして、ボールが自然とゴールに向かって吸い込まれていく軌道。輝かしい時が死んだ。。いつからか、ボールを蹴ってもその反発を感じられなくなっていた。女の心は足にある。そこに震えを感じなくなったのは、女の情熱が死んだせいだ。プロになりたい。その気持ちはとうに、挫折によって塗り替えられ、いつしか厭うていたはずのを目の前に突きつけられたのだった。


「ねえ、またボール蹴ろうよ」

 当時、女がツートップを組んでいた片割れの言葉が今でも耳から離れない。それとまったく同じ言葉を娘の口から聞くだなんて、思ってもみなかった。

「あのね、お母さんはサッカーやめたの。ずっとずっと、ずーっと前に」

 女は諭すように、少女の肩を叩いた。という言葉が通じなかったのか、少女は不思議そうに女を見ていた。そして再び口を開いた。

「なら、また始めればいいのに」

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