第4話 アイスの実な彼女

 土曜日。一週間で最も精神が安定していることで有名だった曜日だが、よくよく直近を振り返るとこの曜日の精神が最も安定しておらず、その名声は地に堕ちたと言っても過言ではない。勝手に堕とすな。


 本日は意中の相手から誘われた水族館デートの日でございます。この約束の存在に、我が頭脳は今週無駄にフル稼働をし続けた。仕事中もふとした瞬間考えちゃうもんね。上司から心配されて申し訳なかったよね。

 だって、だってですよ? 脈が無いと思っていた相手が脈がありそうなムーブをしてきた時、人類はどう振る舞えばいいというのだ? そんな壮大な話ではない。

 正直落ち着こうにも落ち着けるわけが無かったので、目一杯この日に向けて気持ちを整えてきた。最早出陣を控えた武士の心構えだった。


 九月も下旬になると、夏は最早過ぎ去りしもの、着るものに少し困り始める時期だ。というより、前回のドライブデートで着ていたジャケットが丁度良い時期で、やはり俺のファッションセンスは雑魚すぎる。今日は白のトレーナーに黒のチノという、まあ基本白黒青を使っておけば問題無いでしょ?という一般オタクの一般人偽装ファッションである。持っている黒のチノがよれていたので、昨日金曜に有休を消化しユニクロで新しい黒チノを新調したのであった。黒チノとかいうアンパンマンの顔並みにリピートされるアイテム。

 そして本日も親父のセダンを拝借している。父は相変わらずの二つ返事であった。

デミオでも別に良いのだけど、見栄えをよくしたいという虚栄心と、あとは普通にお高い車でドライブする喜びに気付いてしまった。アメイジングをエクスペリエンスしてしまったのだ……。ごめん……デミオ……!

 

 十三時五十五分、一か月ほど前に訪れた西駅の裏に再び到着。紗希さんは既に待っておられた。今日の紗希さんは割とカジュアルな感じで、上は黒のパーカーに、下は鮮やかなオレンジのロングスカートと黒スニーカーだった。お洒落。可愛い。怖い。お洒落な人、怖い。車から降りて、挨拶がてら助手席のドアを開ける。こなれた感、出していけ。

 「こんにちは、遅くなってすいません」

 「いえ、丁度着いたところなので。……失礼します」

 前回そういえば勘違いして手を取っちゃったなぁとか思い出していると、紗希さんが明らかに左手を差し出している。ついでにちらりとこちらに視線を向けてくる。ならば役得、これならば勘違いということもあるまいと、紗希さんが座るまでしっかりと右手で握り返す。私の脈拍が十あがった。テッテレー。いやもうこれ好きやん? 手を差し出されただけで好きと勘違いする、あると思います。やめてくれ、スキンシップは喪男にきく。やめてくれ。

 運転席に戻りカーナビをセットしつつ、聞きたかったことを聞いた。

 「水族館、行きたかったんですか?」

 ぶっちゃけ『何で水族館なんですか?』、もっと言えば『俺って脈ありですか?』と聞きたかったけど、そんな聞き方をすれば雰囲気が秒で終わることが事前のシミュレーションで判明したのでやめておく。というかシミュレーションするまでも無い。

 「そうですね。そういえば、しばらく行って無いなと思って」

 その相手に俺を選ぶってことは……そういうことですか!?って聞きたいんだけど、それをすると以下略。

 「自分もしばらく行って無いなぁ。三年ぶりぐらいですね」

 「ああ、私もそれぐらいだと思います。沖縄に旅行に言った時ですね」

 「ああ、美ら海ですか? いいですよねあそこ」

 「そうです。伊織さんも行かれたんですね。癒されました」

 という感じで順調に会話が滑り出し、『久しぶりに水族館に行きたくなったので誘った』以上の情報は得られないまま、相変わらず会話したり沈黙したりしながら、水族館までのドライブを楽しむ。

 久しぶりに行きたくなったならわざわざどうでもいい奴を誘って水族館に行こうとはならんはずで、いよいよこれって脈あるんじゃないのかしら。まだ知り合って二ヶ月経ってないとはいえ、お互いにお互い人となりはある程度掴んでいるはず。その上でまだ誘ってくれるということは、いよいよ最終段階に進んでいるのではなかろうか……? これ、もうウィニングランなのでは? ここからの逆転劇というのは、ここから彼女の地雷を踏み抜くとか、そういうレベルな気がしてならない。しかし、それを考えると舞い上がる要素なんて一ミリも無く、むしろ妙な緊張感が生まれてくる。やめてよね……俺は純粋に水族館を楽しむぞ。楽しむんだ。集中しろ俺。こんな美人が横にいて? リアリィ?


 シャチを見て、イルカを見て、ベルーガを見て。Youtubeで見て和んでた動物達をいざ目の前で見ると、やっぱりデカいなとか、生きてんなーとか、何とも言えない、けれど確かに何か特別なものを感じる。ライブ感というか。感想が小学生以下すぎる。

 館内は青色基調で、こんな空間に入ることもそうそう無い。生き物に癒されるのもそうだけど、この非日常感が好きという人も多いんじゃないだろうか。思えば、子供の時は水族館のことを決して大好きというわけではなかった。魚類可愛いなぁ、ぐらいだろうか。大人になり、現実に塗れてようやく、水族館のありがたみみたいなものが理解出来るようになった気もする。水族館に限らず、休日にどこか出かけるというのは、大半の人類が長い時間直面しなければならない『労働』という現実に対しての羽休めであり、すなわち精神の休息だ。よって労働は悪、と言いたいところだけど、今こうして休日を謳歌出来るのも経済活動の結果なので、今日はこのぐらいにしといてやるよ(?)。なんて馬鹿みたいなことでも考えていないと、自分の横に立つ女性の魔力に全部持っていかれる。結構頑張って集中しているよ私? いや脳内モノローグではなく目の前の魚に集中しろ俺。


 「紗希さんって、あんまり自撮りしないですよね」

 「するタイプに見えます?」

 「まあ……紗希さんのことをある程度知った今、するタイプには思わないんですけど、するタイプに見えはしますよ」

 紗希さんは気に入った生き物がいれば静かにぱしゃりとしている感じだった。なのでそのことに言及しようとしたらクソみたいな発言が出てきたってワケ。馬鹿野郎が。

 「まあ……そうかもしれませんね」

 「……紗希さん、気になってたんですけど……――」

 「……気になってたのなら、聞けば?」

 この聞き方とか、現実の人から出てくるものなのか? 樋口円香だったらええよ、ゲームのキャラやもん。なのに何で現実の人でこんな言い方して違和感無いんですか? 好き。

 「……そうですね。不快だったらすいません、紗希さんってご自身の容姿に関して言及されると、結構嫌がられてますよね?」

 紗希さんは目の前のくらげをつまらなそうに見ていた。いつもつまらなそうな表情をしているし、つまらなそうな言い方をするけど、必ずしもそうじゃないというのは知っている。紗希さんをどの程度理解出来ているかは分からないけど、少なくとも見て取れる態度がそのまま彼女の内心ではないことは分かっている。その上でこれがどういった態度なのかは分からないけど。それでも、ただただつまらなくて不快、というわけではない……と思う。多分。そう信じてる。信じないと俺の心が壊れる。狂信者になれ。喋りたいことが続けて出てきたので、喋る。

 「前に、過去のことを話してくれたじゃないですか。それが紗希さんの自己評価に影響を及ぼしてるんだろうな、とは思うんですけど」

 以前の彼氏に『お前は顔だけだ』みたいなことを言われて、それが棘として残った結果、紗希さんの恋人としての自己評価がかなり下がったという話。ただ、それだけでこんなに綺麗な人がここまで自己評価を下げるものなのか? 俺だったらならないと思うんだよなぁ。もうちょっとだけここの周りの話を知りたい。だから、もっと言葉を続ける。異性としてというより、もっと水上紗希という人間のことが知りたかった。

 「……すっごい嫌味に聞こえる質問するんですけど」

 「はい」

 「紗希さん、ご自身の容姿のことと、それを踏まえてのご自身のこと、どう思われてるんですか?」

 「……また、何ていうか……凄いこと聞いてきますね」

 分かる。めっちゃ踏み入った質問だなって思う。正直キモいよね、分かる。でも知りたいんだもん。ていうか、ここを知らずしてこの人と付き合いたくないし。今の反応は樋口っぽくないなとか考えてる俺は本当にキモいと思うよ。でも、白状すると、結局のところ俺は自身に対してなんだかんだ一定の自信がある。キモいし、陰キャでキモオタだけど、だからこそ人の感情に対しては比較的敏感……主にネガティブ方面だが。社会人になって、どんな相手だろうが、張らなきゃいけない時は張らなきゃいけないというクソ度胸みたいなのも覚えてしまった。自分は自身が雑魚であることを承知しているけど、客観的に見て必ずしもそうじゃないことも覚えたし、大人になり自分のマイナスな面とプラスな面をある程度過不足なく認識することも出来るようになった。そうやって、主に会社でだけど人とやり合えるようになるにつれ、自信が付いていく。自分はクソオタクで、紗希さんと高校で出会ってたとしたら絶対何も無かったけど、今では紗希さんの横を平然を装って歩くことも出来る。そして、嫌われるリスクを視野に入れつつ、より適切に自分と相手との相性を見極めるべく、問いを発することも出来るようになった。そう考えると、大人になったのも悪くはない。

 なんて、脳内で自分語りを出来る程の沈黙の後、紗希さんは静かに、いつも通りに口を開く。

 「そうですね。多分、世間一般で見たら比較的綺麗な方の顔なんじゃないですか」

 「はい」

 「なので……いや、違うか。……まぁでも、……。まあ、もっとうまく生きることが良かったのに、とは常々思ってます」

 暗く幻想的な空間の中で、紗希さんの表情は少しだけ寂しそうだった。そのまま彼女は思索の海に沈んでいく。少し立つのに疲れたのと、彼女とゆっくり話が出来ないかなと思ったら、そういえばちょうど良い場所があったな。

 「最後に、もう一回最初らへんにあった水中観覧席に行きませんか?」

 「……いいですよ」

 隣を歩く紗希さんとの距離はまさに小指の差ほどで、それは彼女から俺への信頼度の高さのように思えて、少し嬉しかった。


 目の前の大きな水槽でイルカが気持ちよさそうに水槽を泳いでいる。クラゲのいた幻想的な空間と違い、ここは明るい水色に包まれていた。後方の空いているスペースに腰を下ろすと紗希さんがすぐ左隣に座る。隙間はほぼ無い。一緒に歩くのはまだ心が耐えられるけど、一緒に座るのは話が違う。これって犯罪じゃないよね? 俺が先に座ったからね。

 しばらく目の前の水槽を眺めて心を落ち着かせつつ、再び口を開いた。

 「あまり……立ち入ったことを聞かない方が良いですか?」

 紗希さんの返答はしばらく無かった。肝が冷えていくのを感じつつ、水槽を眺める。結局のところもうどうにでもなーれの精神だ。シミュレーションでも多くのシナリオで最終的にもうどうにでもなーれになった。シミュレーションの意味イズ何。

 二頭のイルカが連れ添って泳ぐ姿は見ていて飽きない。広い水槽といっても、イルカにはやはり狭いだろうか。水中を泳ぐ姿は重力を感じさせない。それでも奴らは水圧に締め付けられてるんだよな。見た目と内実の違いについて思いを馳せるが、多分奴らは別に水圧に締め付けられてると思って無いと思うよ。

 「……いえ。聞いてくれるのは、嬉しいですよ」

 結構な時間、体感で三分くらいだろうか、ようやく紗希さんから返答が来た。想定していた回答よりもずっと暖かくてありがたい言葉だった。

 「嬉しい……ですか?」

 「……私のことを知ろうとしてくれるっていうのは、嬉しいですよ。それに、その……すぐに考えこんじゃって、返答が遅れるのは申し訳ないなとは思うんですけど。それも、待って下さるので、ありがたいです」

 なるほど。待つのが正解だったわけか。まあ正解だと思って待ってたわけだし、別に待つのが苦じゃないから待ってただけだけど。

 「なんていうか……めちゃくちゃ本音なんですけど」

 「はい」

 「……私は性根のところで、面倒臭くて、容姿に反してお花畑なことも思ってしまうし、その割に不愛想で、顔で許されてるなって言動もするし、性格も悪いし。学力は多少ありますけど、結局頭があまり良くないし。……あと、口下手だし。自分の中身が春乃とかもえだったら、もっと良い人生送れてるんだろうなって。でも、そんな思考に意味は無いので、本当無駄だなって思ったり。……すいません、まとまって無いことばっか言って」

 「いえ……嬉しいですよ。もっと、紗希さんのこと知りたいです」

 「なんでですか?」

 なんでですかと言われてもね。……いや。てかこれ選択肢出てますね。見えますよウィンドウが。……しかし俺は内なる本心に従って正直に話すタイプのヒューマンである。

 「……自分、ギャップ萌えなんで」

 これはチキンとかではない。断じて。マジ?

 「……はぁ」

 過去一悲しい反応をされた。負けるな俺。

 「えーっとですね。えーーーっとですね。いやもう普通にガチで行きますよ?」

 「どうぞ」

 「自分が樋口を好きな要素と、紗希さんの好きな要素の一つで結構もろ被ってるところがあって。紗希さんと樋口は似てるところもあれば似てないところもあるんですけど、ただ何を考えてるか分からないところは結構似てます」

 「……それ、褒めてないですよね? 何を考えてるか分からないは結構言われますけど」

 「そんな人が、自分の考えてることを教えてくれるのは嬉しいです。その思ってることが、結構自分の考えに近かったりすると、それもまた嬉しいですし。……その、特に深いことを言えない点が本当辛いんですけど、まあ本音だからしょうがないです」

 「ふっ……好きですね、樋口円香」

 「好きですね、樋口円香。それと全く別の軸で水上紗希さんのことも好きです」

 視線は水槽から離さない。離せない。

 「……告白ですか? ……いや、忘れてください。……その好きっていうのは、どういう意味で?」

 ここ……なのか? でも違う気もする。というか違う意味で言った。

 「あー……えっと、今のは人として好きっていう意味で言いました」

 「それは、さっきおっしゃられたような点で?」

 「そうですね。容姿も含めた性格が好きです。めちゃくちゃアレな言い方をすると、キャラクターとして好きです、すいません」

 「ふ、ふふっ、あははっ」

 三次元の人間に対して言うことでは無い気もしたので即謝罪を決めると、横からガチな笑い声が聞こえてびっくりする。

 「わっ、笑うところですか?」

 「ふっ、いえ、あの……あははっ」

 多分、彼女の純粋な笑い声を初めて聞いた気がする。鈴を転がすとはこのことか。めちゃくちゃ綺麗な笑い声だった。もっと笑わせたいなって思っちゃうよね、これは男の本能なのでしょうか。文脈的にはあまり良い笑いでは無いような気もするんだけど、あまりにも彼女の笑い声が楽しそうで、なんか良いんじゃないかと錯覚する。目尻には涙も浮かんでいて、いやほんまそんなおもろいこと言いましたか?といった気分である。

 「ふふ……ふふっ……あー……すいません、キャラじゃなく笑ってしまって」

 「いや、もっと笑ってほしいですけどね?」

 「あー……それは、すいません」

 「でも普段の感じもめちゃくちゃ好みなんで悩ましいですね」

 「なんですかそれ……口説いてます?」

 「いえ、もう本音がダダ漏れてます」

 「なるほど。でしょうね」

 「すいません……」

 なんだろう……この展開はどうなんだ。僕のシミュレーションに無いぞ!? なんかもしかして恋愛ルートから外れた展開な気がしないでもないけど、過去一で会話が弾んでる気がする。

 「伊織さんって、変わってますよね」

 「実は……実は? いや、まあ変わってるかもしれません。でも人間皆どこかしら変わってるもんじゃないですか?」

 「それはそう」

 「はい」

 「ん」

 とか言ってたら会話が終わった。それもまた良しである。……であるよな? 不安丸である。二人でイルカを眺める。

 「……いや、掘り返しますけど面白いこと言いました?」

 「いや……何か。面白い人の見方をしてるなと思って。何故かツボってしまいました」

 「すいません……」

 「謝ることじゃないです。伊織さんらしくて面白いです」

 「俺らしい……ですか?」

 「はい。……その、なんていうんでしょう。伊織さんって面白いですよね」

 「それはどうでしょうか」

 「面白いですよ。それか、私の好みなキャラクターってだけかも」

 「そう言って頂けると光栄です」

 「口説いてますよ」

 「……本当に?」

 「どうでしょう?」

 顔を左に向けると、すぐそこに紗希さんの顔があってびっくりした。最初からあったんですけどね。隣に座ってますからね。心臓さんがアップをし始める。ステイステイ。

 改めて見ると、本当、モデルとかしてそうな顔だ。そして、その表情は微笑んでいた。決して自然な感じでは無く、意図的に笑顔を作ってるような顔だ。あまり笑顔を作るのが得意ではない人の、作り笑いではなく、努めて笑顔を見せたい、みたいな表情だ。えなに。これ脈あるよ。ここかもな、と思った。あるいは錯覚か? でももう止められなかった。決壊しちゃった。ここかどうかは知らんけど、もう、止められないほどに恋愛感情が上昇してしまった自分を、もう一人のボクが見ていた。もう駄目です、決闘デュエルしちゃう。

 「紗希さん……参考までにお尋ねしますが、どういう異性が好みですか?」

 ここで参考までにとか言っちゃう奴は何やってもダメ。

 紗希さんの笑みが思案の表情に変わる。張り詰めた顔といってもいいかもしれない。あるいは、逡巡する顔か。品定めの顔か。ていうか上目遣いだな。この人の上目遣いに耐えられる男いるのかよ?

 「そうですね……特定のタイプは無いかも。嫌な女なので、得意ではないタイプはいっぱいありますよ」

 「例えば?」

 「自分に自信がありすぎる男。女を落とすのがゲーム感覚みたいな男。自信の無さすぎる男。卑屈すぎる男。自然体じゃない男。等々」

 「……この言い方、キモいとは思うんですけど、発せられずにはいられないんですが」

 「どうぞ?」

 「俺って、それに該当してます?」

 視線はガッチリと交差していた。まるで相撲だな。

 「そうですね。してないです。……伊織さんは?」

 俺の好きなタイプ。いや君だが?

 「俺も、何だかんだで特定の好きなタイプはいないんですけど、気になってる人はいます。紗希さんは?」

 「私も、気になってる人はいます」

 「そうですか……どんな人ですか?」

 「うーん……割と優しい人ですね。あと、多分気が合う人です。まだまだ分からないですけどね」

 「俺も、その人と気が合うなって思ってますし、その人のこともっと知りたいです。出来れば、もっと近くで」

 少しの逡巡の後、紗希さんは試すような上目遣いで言った。

 「……言葉にしてください」

 すぐ二十センチ先に、紗希さんの顔がある。この青まみれの環境でも、俺の大好きな切れ長の垂れ目は濡れているように輝いていたし、泣きぼくろがある頬には朱が差しているのが分かる。緩いウェーブのかかった明るい茶髪は毛先にかけて水色のグラデーションになっていた。顔が良すぎる。良すぎるというか、俺の好みすぎる。こんなことあります? 自分の理想の女が現実に顕現しているんだが。心臓は当然全くステイできていない。でもそれでいい。


 「紗希さん、好きです。付き合って下さい」


 彼女のどこか張り詰めたような無表情が、笑みへと変わっていく。まるで緩む頬を何とか抑えようとして、それでも失敗してしまっているような笑み。嬉しくて浮かべる笑顔だった。


 「私も伊織さんのことが好きです。私で良ければ、喜んで」


 青い光を反射した異例な瞳が閉じられる。やることは一つなので、周囲の目を若干意識しつつ、自分の唇を彼女の唇に重ねた。

 ちょっとまだ、現実感とやらは追いついて無かった。


 「今後の支払いについて明確にしておきましょう」

 「はい」

 水族館を見終わり、近くにあるちょっと高級なロブスター店でディナーを食べた帰り。会計は自分で払ったが、店を出るなり紗希さんが切り出した。

 「一々財布を二つ開くのが嫌なのは分かりますし、一方で一々きっちり割り勘をするのも面倒です」

 「はい、同感です」

 「ある程度は金額を考慮しつつ交代で支払うのと、共通の財布を作るのと、どちらが良いですか?」

 共通の財布……そういうのもあるのか。魅力的すぎる。

 「……作りますか、共通の財布」

 「分かりました。……財布、買いに行きましょうか」

 「いいですね。どこか行きたいところあります?」

 「んー……アウトレットか、伊勢丹か。土岐が再来週ぐらいにセールかな?」

 「じゃあ、そこにしましょうか。土曜日で?」

 「そうしましょう」

 紗希さんのテンションは少し高い気もするけど、それでもいつものクールな紗希さんだ。口数は多いかもしれない。そして、俺達の手はしっかり繋がれていた。しかも恋人繋ぎ。手汗がやばい。よってやばい。

 左手には南極調査船が見える。名港は綺麗な夜空だった。

 「紗希さん、敬語、ちょくちょくとってもいいですか?」

 「ずっととってもいいですよ」

 「ちょくちょく敬語も混ぜていきます」

 「分かりました。私もちょくちょく敬語を混ぜていきますね」

 「……じゃあ、これからもよろしく」

 「うん。よろしくお願いします。……伊織」

 「……紗希?」

 「うん」

 「紗希」

 「伊織」

 まあ、付き合いたてやからね。今の流れはキスですね。

 今更になって、『リア充になった』ということだけ言語情報として認識する。

 「でも、紗希さんって呼ぶのも好きなんだよね」

 「私も、そう呼ばれるの嫌いじゃない。……というか、好き」

 「じゃあ紗希さん呼びもちょくちょく続けます」

 「……伊織は何て呼ばれたい?」

 「伊織がいいかな。……あ、あと伊織君もいいかも」

 「分かった。伊織。……伊織君」

 「うん?」

 「いい名前だよね」

 「紗希さんの名前ほどじゃないよ」

 「それは嘘」

 「……同じぐらいいい名前。ていうか比べることじゃない」

 「それはそう。ふっ……」

 お馴染みの、シニカルな笑いだった。


 帰りの車で、気になってたことを聞く。

 「……その、紗希さん。正直今日、告白しようか迷ってたんですけど。あの、合コンの時点では、別に自分のことそこまで……だったんですよね?」

 「……」

 横をちらりと伺う。夜の街の灯りは、紗希さんの表情を映し出すのには少し光量が足りてなかった。

 「……その、いつから付き合ってもいいなって、思われたのかなって……」

 「明確にいつ、ってのは分からないんですけど。でも、ドライブに行った帰りには、もっと知りたいな、とは思ってました」

 「えっ? じゃあ何で合コン――」

 「いや、その! ……私も、テンパってたのっ」

 「……えーっと、テンパって?」

 「…………」

 「……え?」

 「……当ててみて」

 ガチで困惑していると、これまでにも時折見かけていた挑戦的な紗希さんが現れた。ここは付き合った後も変わらないんですね。好き。

 水族館から家のある方面まではショートカットになるような高速が無く下道で帰らざるを得ない。まだ八時を少し回ったところなので交通量は多いし、信号も都会なので多い。よって、紗希さんが赤面しているかどうかは、赤信号の光がカモフラージュになって分からない。

 「……とにかく次に会う予定を入れようとして、丁度合コンをセッティングしてと言われてたので誘ったとか?」

 「…………正解」

 なーーーるほど。なるほど。そういうことだったのか。テンパって。なにそれ、俺の彼女めっちゃ可愛いんですけど? ……ていうか意外とポンコツなところもあるんだな。ギャップやん。

 「……紗希って意外と……」

 「……なに」

 「いや、失礼だからやめとく」

 「……。幻滅した?」

 「いや、ギャップ萌えした」

 「言っておくけど、そんなにポンコツじゃないから」

 「まあ、いっぱいポンコツだとギャップ萌えにならないし」

 「それはそう」

 何かこう、付き合い立てのカップルの会話かこれは? 会話内容はそうかもしれないけど、会話の温度感が既に付き合って三年目の倦怠期カップルぐらいのぬるさである。

 「伊織は、いつからなの」

 「紗希さんのことが好きになったの? ほぼ一目惚れに近いんだけど、俺もドライブでいいなぁってなったよ。でも、流石に俺みたいな冴えないオタクは眼中にないだろうとも思ってたから、一緒に出掛けられるだけでラッキーって思ってた」

 「ふぅん……」

 しばらく沈黙した後に、紗希さんが口を開く。

 「これから先……いや」

 「なに?」

 「付き合いたてに話すことじゃなかった」

 「俺、心が鈍いからいくらでも言っていいよ」

 「……素直に心が広いって言えば?」

 「自分で心が広いって言うのはちょっと痛いかなと」

 くすりと紗希さんが笑う。

 「……その。私、もう分かってくれてると思うけど……性格悪いこと言うと、見た目のわりに恋愛偏差値あまり高くないし、性格もあまり良くないから。伊織のこと、結構傷つけちゃうかもしれない。それに、伊織の言葉を変に解釈して無駄に嫌な思いしたりするかもしれない。見てくれはいいかもしれないけど、可愛げの無い言動通り、嫌な奴だから」

 「そんなこと無いと思うけどなぁ」

 「それでも」

 沈黙。この静けさは、彼女が言葉を探しているものだというのは、もう分かってる。多分。

 「それでも、私はあなたとなら、すれ違っても話し合って……分かり合えるかな、って思ってる。……だから、迷惑かけると思うけど、それでもちゃんと話し合いたいなって思う……。ごめん、いきなり言い訳がましいキモいこと言って」

 それは、俺の理想のカップル論と同一なんだよなぁ。

 「めっちゃ……まじで、嬉しいよ。まだ紗希さんのこと沢山知ってる訳じゃないし、俺もたくさん幻滅されるようなことしちゃうかもしれないけど、それでも上手くやれそうな気がしてる。過ごしてきた世界は大分違うと思うけど、世界の見方は結構近いのかなって思ってる」

 「……ふっ。かっこいいこと言うじゃん」

 「すいませんキャラじゃないこと言って……」

 「いや、あなたはそういうキャラ……というか、そういう人だと思ってるよ。伊織のその、かっこいい部分?が若干痛いと自覚してる感覚も、それでもそう思っちゃう感覚も多分分かるし、それを含めて伊織って素敵な人だなって思う」

 「……そう言って貰えると。……いや……なんでそんな俺特効みたいな言葉を吐ける水上紗希」

 「ドラマの面白いライバルキャラみたいなセリフ」

 「紗希さん、好き」

 「そう。……私も」

 「ふふ」

 「何その笑い?」

 「キモくならないように抑えたけど漏れてしまった笑いです……」

 「ふっ……なにそれ?」

 

 夢のような時間が終わる。夢じゃないよな?って言葉があるけど、しっかりと現実だと認識した上で、まるで夢みたいだ。……いや、本当に夢じゃないよな? 俺の夢はこんな高精度じゃないから多分大丈夫。

 「じゃあ……今日はありがとう、伊織。水族館楽しかった」

 「うん、楽しかった。癒された。じゃあまた、再来週かな?」

 現在、西駅から徒歩十分ほどにある紗希さんのアパート前。とうとう俺は彼女の自宅を突き止めることに成功した。お別れの時間だった。

 「うん、再来週。あ、そうだ」

 なんでも無い風を装って、若干紗希さんの目線の挙動が不自然である。この人、案外感情表現が豊かな気がしてきたな。

 「え、っと……。どれぐらいの頻度で会いたい?」

 ほう……頻度確認ですか。たいしたものですね。

 「……正直、とりあえず来週末も会いたい気持ちはあるけど」

 「……土曜は昼間に予定があるんだけど、夜なら空けれると思う。うち来る?」

 「……いいんですか?」

 ていうかこのカップル会話に三点リーダが多すぎないか。

 「駄目なわけ……いいよ」

 「緊張します……」

 「緊張しないで待ってる」

 「……本当に?」

 「……ちょっとは緊張するかも」

 「だと思った」

 「なにそれ。生意気。……じゃ、何時ぐらいに帰れるか分かったらまたLINEするから」

 「うん。じゃあ、おやすみなさい」

 「うん、おやすみなさい」

 彼女が荷物をまとめドアを開こうとしたところで、振り返ってこちらを向くと、身を乗り出し素早く唇を奪われる。……イケメンすぎんか?

 「……おやすみ」

 「紗希さんって、意外と甘々な感じ?」

 「悪い?」

 「良い」

 「そう。じゃ」

 「おやすみなさい」

 甘くてクール。……アイスの実が食いたくなってきたな。

 彼女がアパートに入るまで見送ろうとしたが、一方の彼女はこちらを見送ってくれるようで立っていた。イケメン。手を振り、紗希さんが手を振り返してくれるのを横目に、車を発進させる。

 心、ポカポカします。けれど、意外と舞い上がる感じは無……いや嘘だな。死ぬほど舞い上がってるなこれ。舞い上がり力がデカすぎて認識出来ていないだけだなこれ。事故らないよう、気持ちを落ち着かせるために素数を数える。これはこれで注意散漫な気もするので四までで数えるのを打切り、とにかく運転に集中する。そのつもりだったのだけど、緩んだ口元は閉まる気配が無かった。体は正直だな、グヘヘ。


 こうして俺は久しぶりに彼女が出来た。今までに出来たどの彼女よりも短く恋人の関係になったけど、今まで出会った誰よりも深い関係になれそうな、そんな予感があった。





*あとがき*

いったん、ここまでの付き合い始めまで、当初妄想していた話を書き終えられました。

八月に勢いで書き始めたのが、途中「これ何が面白い?」状態になって、結局十二月までかかるというこの執筆力の無さよ。とはいえ何だかんだで六万字も書けたので満足でございます。

ここからは、日々感じたこととかをこの二人にも感じてもらい、短編形式で長く細く書きたいなと思っているので、多分この四話まで以上に不定期になる予定。


これとは別に、年度中に何か短編でも長編でも書き始めたいですね。

一貫性の無い男なのでもしかしたらSFとか書いてるかも。

というわけで、ここまで読んでくださった方が一人はいることを信じて、読んで頂きありがとうございました。

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切れ長垂れ目、緩いウェーブと泣きぼくろ レイニ @rainygrave

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