君は淡景に微笑う

ため息のこびりついた天井は暗い灰色だ。

決して疲労による視覚の異常などではない。


このところ仕事が立て込んでいて、人と関わる余裕がまるでなかった。

同居人の顔を最後に見たのはいつだったか、そもそも帰ってきているのかすら定かでない。

一応、連絡自体は取っているけれど、あっちはそっけないしこっちはてんてこまいだしで内容はとても薄い。ちょっとくらい砂糖を盛りたい気持ちである。


気付かぬうちにとっくに夜だが、これが日常なので不思議さはとうに消え失せた。地球は回っている。

「んっとにもう!次から次へと!」

と、叫んだところで喉に振動の余韻が残るだけ、眉間に燻る不快感はどこにも行かない。

在宅勤務には慣れたもの思っていたが、度重なる追加要求やギリギリの納期に追い詰められていると、仕事を切り上げた後も家から労働の匂いが消えず、仕事用のパソコンの電源を落としても全く落ち着けない。

ようやく週末に辿り着いてひとときの休息を得られるわけだが、気持ちはそう簡単に切り替わらない。

ひたすら机にしがみついていた時に全身から漏れ出た負の感情がまだまだたっぷりと部屋中に漂っているような気がして、なんだか肩が重い。

換気のために窓を開けているのだが、濁った感情は網戸の網目よりも大きいに違いない。

「うぅー、さっぱりしてこよう」

長いこと食事を摂っていないことを思い出した胃が呻き声を出したが、それよりもとにかく熱いお湯を浴びて、頭にこびりついたモヤモヤとした感情を洗い流してしまいたかった。



瞼に光を感じて目を擦る。はて、いつの間に寝ていたのだろうか。

私はベッドにすっぽり収まっていて、どうやら今は朝らしい。

覚醒したがる身体と二度寝をしたい気持ちが喧嘩していたが、どうやら身体の方に軍配が上がりそうだ。

近くに人の気配があったので目をこじ開ける。

少し顔を起こすと、向かいのベッドに彼女が座っているのが見えた。

片手でスマホを弄り、顔も視線もそちらに向けている。

朝日が照らす彼女の横顔は光の中に溶けてしまいそうで、それをどうにか留めておきたくて、私はじっと見つめていた。


「帰ってたの?」

寝起きでかすれた声で尋ねる。

「君がシャワーを浴びてる時にね」

「あっれぇ……」

淡々とそう告げられる。全然気が付かなかった。

「唸り声上げながら風呂から出てきてそのまま部屋に入ってくの、面白かったよ」

どうやら昨晩の私は相当に参っていたみたいだ。

「ろくに乾かしもしないんだから。ひどいよ、寝癖」

彼女はこちらを見るでもなくそう続ける。

頭に手をやってみると確かにひどい。五指の全てが絡め取られ頭皮が悲鳴を上げた。

「もっかいシャワー浴びてくる……」

「それがいいね」

そう口にしたものの、疲れの残った身体は起き上がることを良しとしない。

「背中バキバキだあ」

「もうちょっと力抜いてもいいんじゃない?あんまりやり過ぎると身体壊すよ?」

「そうは言ってもさあ、待ってくれないんだよ、納期とか納期とか納期とか」

思わず大きなため息をつく。確かに仕事の量も多いが、切羽詰まった原因に自分の要領の悪さがあることも否定しきれないのだ。だからこそ余計に草臥れてしまう。

「合ってる?今の仕事」

「……多分」

「そ」

彼女の返事はいつも端的だ。


身体全体に血と酸素が巡りベッドから這い上がる気力が湧くまでの間、私はぼうっとしながら朝日が照らす横顔にしばらく見惚れていた。

ぼんやりとした視界が次第に明瞭さを取り戻し、伏し目を飾る睫毛の一本一本が視認できるようになった頃、私はふと思い立ち、手探りで自分のスマホを引っ張ってカメラを起動して掲げる。

「ねぇ、こっち向いて」

「なに?」

怪訝そうな声色の返事だったが、彼女はすぐにこちらに顔を向けてくれる。

「一枚撮らせて」

一瞬だけ左眉を吊り上げたが、ふぅ、と小さく息を吐いたあと元に戻る。

顔にフォーカスが合わせられ、日光で淡く光った室内に観葉植物達が緑を添えている。ふわりと風が吹き彼女の髪を揺らしている。


逆光を浴びた姿がとても綺麗だった。

画面越しの彼女は少しだけ微笑んでいる。

シャッター音の後は、あっという間にいつもの表情だ。


「うん、ありがと」

言うや否や、私の腹の虫も鳴いた。そういえば何も食べずじまいだったな。

「ごはん、適当に作ったのレンジに入れてあるよ」

「ほんとに?ありがとう」

「私のお昼のついでだから」

「じゃぁ一緒に食べよっか」

「とっくに食べたよ、私は」

「えっ」

カメラからホーム画面に戻る。時刻は14:30を示していた。

「寝過ぎた」

「死んだように眠ってたね」

「貴重な休日が……」

私は再び大きなため息を吐くことになった。

だけどまぁいいか、素敵な写真も撮れたことだし。


「ねぇ、その写真どうするの?」

「どうって、別に。たまに見返すだけだよ」

「そ」

彼女は再びスマホに視線を落とす。この横顔も撮っておきたい。

「ダメ」

「ケチ」

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掌編 本田そこ @BooksThere

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