森の隠れ家に魔女がいる

年季の入ったローブさえ羽織っていなければ、山菜拾いにやってきた村の娘にしか見えなかっただろうか。あるいはその立ち居振る舞いから、試料を集めにきた研究者か。

いずれも大きく外れてはいないが、しかし正確な表現ではない。


黒いローブは昼間の日光を吸い、熱を持っている。

捲られた袖口からは、白く細い腕が伸びていた。

擦り切れたように短い裾はゆったりと流れる森の空気に揺られ、使い込まれたブーツが土を踏み締める音のみが響く。


灰燼の魔女。

かつて王国を一夜にして滅ぼしたと伝えられる存在、それが彼女だった。


今は、隠れ家周辺の環境調査を兼ねた散歩のついでに、食べられそうなものがないかとふらふら歩き回っている。


***


山間の森でその廃屋を見つけたのは偶然のことだった。

青い木漏れ日の注ぐ木々の隙間に打ち捨てられた、褪せたボロ屋。

一目見るだけで住人がいなくなって久しいことがわかる。

旅の途中、草木の匂いに吸い寄せられた当てのない寄り道だったが、思わぬ収穫だとほくそ笑む。

廃屋の周囲に獣道は見当たらない。何かの寝床になっているということもなさそうだ。

「村からもだいぶ離れているし、ここ、いいんじゃないか」

そう呟くと、肩に乗ったボロ布の塊がもぞりと動いた。布の隙間からは黒いモヤのようなものが見えている。

魔女の噂話には時折、使い魔の存在も語られる。

このモヤこそが使い魔と呼ばれる存在の本体であった。どのようにして、何のために生まれたのかは謎のまま、魔女もそれを語ることはなく、モヤはただ常に魔女の傍らにある。

身に纏ったボロ布は、モヤの姿を隠すための服のようなものである。

ボロ布である必要はないのだが、別のものに変えようとすると抵抗するので、同じものをずっと使い回していた。

「君にとってはどこでも変わらないかな」

モヤが再び動く。異論があるかはわからない。


廃屋の玄関の扉に手を掛ける。少し硬いが、鍵は掛かっていないようだ。力を込めて引っ張ると、蝶番の錆が擦れる音、軋んだ木材の叫び声、そして不穏な破壊音を立てながら扉が開かれた。

「……あとで調べとこう」

大きい庇と汚れた窓ガラスによって日光は限りなく遮られ、室内はどんよりとしていた。湿気を含み粘ついた木材の香りが漂う。

「虫は、入り込んでるよな......」

姿は確認できないが、気配は感じる。窓や扉が閉められていても、どうしたって隙間から入り込んでしまう。


玄関から一旦離れ、近くにあった雑草の葉を数枚むしり取る。

鞄からミント液を取り出して葉に数滴垂らすと、それを両手で包み、内側に微量の魔力を注ぎながら、空気を圧縮するように握り締めていく。塊が震え始めたら、それを廃屋の中へと投げ入れて、自分は屋根の上へと飛び乗った。

直後、小さな破裂音と共に葉の塊が弾け飛ぶ。

廃屋の中に溜まった澱んだ空気を押し出して、ミントの香りを散布する。

即席の殺虫爆弾である。防虫も兼ねている。


屋根の上まで爽やかな香りが漂ってきた。

玄関や壁の隙間からではなく、どうやら屋根のどこかに空いた穴を通じて吹き出てきたようだ。

「これは雨漏りもしてるかな。さすがに手入れなしとはいかないね」

モヤが身を震わせるように動いていた。その様子を見て魔女は尋ねる。

「匂い、わかるんだっけ?」

応えるかのように伸び縮みしているが、肯定か否定かはわからなかった。

あるいは、どちらでもないのかもしれない。

「野宿でもいいんだけどね。せっかく明るいうちに見つけたんだ、頑張って掃除しようか」

テントを立てるのは疲れるし、虫対策が面倒なのだ。


***


掃除ともなればモヤにも出番はある。

いつものボロ布は一旦脱いでもらって、水を吸わせた布きれを纏わせる。

そのまま壁を這ってもらえば簡単に拭き掃除ができるというわけだ。

その様子を眺めながら、魔女は休憩していた。

「繊細な作業は人手に限るね」

こういうとき、モヤは文句ひとつ言わずに働いてくれる。

「……人じゃないか」

テーブルに置かれたランタンが室内を照らしている。

簡素なテーブルと二脚の椅子。

空っぽの大きな棚。

ベッドと思しき木製の台。

廃屋に残されていた家具はこれだけだった。

炊事場もなく、とても単純な作りをしている。狩りや採集のための休憩所のようなものだったのだろうか。今となっては知る由もない。

壁と屋根さえあれば、あとは自分でどうにかすればいい。十分すぎる拾い物だった。

おそらく、冬が来る前にはこの地を離れることになるだろう。

そう考えれば数ヶ月の間の塒に過ぎないが、だからといって居住空間の整備に手を抜くわけにもいくまい。


「魔術でパパッと作れたらよかったんだけど」

天井を滑っていたモヤが動きを止め、ブルブルと震えた。

やめろ、という意思表示である。

「大丈夫。やらないよ」

魔力を用いた物作りは、可能か不可能かでいえば可能だ。

材料そのものの生成となれば難易度は格段に跳ね上がるが、加工なら方法論を見出すこともそれほど難しくはない。やり方次第では、普通に作るよりも頑丈で繊細な家具にすることだって可能だろう。

しかし、あくまで理論上の話である。

物理法則の枷もなくエネルギーとしての側面も強い魔力の操作は、いかに魔女と呼ばれる存在であろうと、容易なものではない。

例えば薪割りを魔術で行おうとしても、力の加減を少しでも間違えれば木材はあっさりと砕け散ってしまう。手ずから斧を振り下ろした方がよっぽど効率的なのだ。

水分や熱を自在にコントロールできていれば、部屋の掃除だって簡単に済ませられたはずだ。

今回のようにモヤに頼んだり自分でなんとかしているのは、以前、乾燥を試みた結果、仮宿候補だったはずの建物を燃やし尽くしたことがあるからだ。

山火事へ発展しそうになり、周囲一帯の地面を丸ごとひっくり返してどうにか防いだのだが、あの地では山神の怒りとして語り継がれる羽目になった。

明らかな超常、魔法と称される現象を引き起こす方がよっぽど簡単だ。


蘇った記憶を頭の奥に押しやって、これからのことを考える。

一応、目的を持ってこの地を訪れたわけだが、急ぎの用事ではない。

当面はこの場所の生活環境を整えていくことが最優先の目標だ。

「掃除が済んだらフィールドワークといこうか」

モヤがその場でぐるりと一回転する。

了解の返事か、あるいはお前も動けという文句か。


***


とある村で、一つの噂話が流れた。

曰く、街道沿いの森の奥には魔女が棲んでいる、というものだ。

かつては狩りの盛んだったその森の奥地は、今は手付かずの領域になっているという。

流通の発展による食糧事情の変化、狩りを生業とする人々の減少、幾つもの要因で、わざわざ森の奥まで向かう人は少なくなっていた。

そんな場所で、見知らぬ女性の姿を見たという者が何人も現れたのだ。

森の中に人影を見つけ、挨拶でもしようと近付いたら森の奥へと消え去ってしまった、と。

その人影を、ある者は陰鬱な空気を纏った腰の曲がった老婆であると言い、ある者は凛然たる眼差しの麗人であったと言う。

諦めずに追いかけたものもいたが、皆一様に、気付けば森を抜けていたと口にする。同時に、唸るような獣の鳴き声を聞いたとも。


一時期はこのようにして森へ向かう者も多くいたが、時が経ってもまるで成果がなければ、人々の興味は急速に薄れていく。

姿を見たという者も、あれは動物か何かを見間違えたのだろうと自分を納得させて解決としてしまう。

今となっては、村の食堂の店主が暇を持て余した時、ふと思い出したらお客さんとの会話の種にするような、その程度の小さな噂話である。


昼飯時を過ぎて、食堂にいるのは店主と一人の客だけだった。

この客は最近通うようになった新顔で、店主は積極的にコミュニケーションを図っていた。ゆえに会話の取っ掛かりに、その噂話を口にする。

「なぁ姉さん、あんた確か、街の方に住んでんだっけ?」

「ええ」

「じゃぁあっちの道使ってんだよな。聞いたことあるか?森の魔女の話」

「いえ、全然。どんな話なんです?」

客は食事を済ませ、お茶を飲みながら休んでいるところだった。

「なんだったっけな……、婆さんだか美人だか……よく覚えてないわ」

店主はそう言って大袈裟に笑った。

「ちょっと前はそのせいで森ん中入るやつもいたんだが、もう落ち着いちまったな。昔は狩りやら山菜採りやらで賑わってたみたいだけどよ、今じゃわざわざ森に入るのも手間だってんで滅多に行かん。元通りだな」

「そうなんですね」

「鹿肉が美味いってんで評判だったんだが、牛やら豚やらに押されて最近は人気がなくてな。安く買い付けられるから悪くないんだが、ちょっと寂しいもんだ。ま、姉さんみたいな人もいるからたまには出してるけどよ」

「ええ、とても美味しかったです」


さて、魔女の噂話の中に関連して、ある若者の不思議な体験談がある。

この噂話を聞きつけ、正体を見極めてやろうと何日も森を探し回っていたところ、ある日の夜、閃光が走り、轟音と共に血と肉の焼けた匂いを乗せた熱風を浴びせられたという。

これを魔女の警告だと受け取ったその若者はすぐさま逃げ帰り、それから数日の間は恐怖のあまり食事も喉を通らぬ有様だったそうだ。


***


隠れ家に作られた簡素な庭、その場所に炭と化した何かが転がっている。

鹿を狩り、捌くところまではどうにか頑張ったのだが、マッチを取りに戻る手間を惜しんだのが仇となった。

魔力を注ぐ量が過剰となり、急速に温められた空気が膨張し、それを囲った薪が燃え盛り、爆発した。

上に乗せた金網、そこに置かれた肉、一緒に食べようと集めてきた山菜、用意した何もかもが炎の渦に包まれた。

家や木々に燃え移らなかったのは不幸中の幸いである。

「ははっ」

爆発を引き起こしてから数分後、魔女がようやく発した一言である。

傍にいたモヤも爆発に巻き込まれてどこかへ吹き飛ばされてしまい、応えるものはどこにもいなかった。


後始末もほどほどに、煤汚れを落とすべく水浴びをして、早々にベッドに潜り込む。

魔女にとって、食事による栄養摂取は必須のものではない。

空腹は生じるし栄養の欠乏も発生するが、時間が経てば自ずとその状態も修復される。

しかし、食事という行為がもたらす刺激への欲求が消えて無くなるわけではないのだ。

特に、食べたかったものが食べれなかった場合には一層強いものとなる。


村の食堂に新顔の客が訪れる、その前日のことであった。

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