小説賞
階段を下りる足音がいつもよりも速い。二階では誰かと電話していたらしいが、その歩調に何かあったのかと居間でお茶を飲んでいた私はそれとなく振り返った。すると普段見せない表情を浮かべ夫が声を発した。
「取れたよ!」
あまりに簡潔過ぎたと私の顔から判断したのだろう。すぐに「
「取れたって?お父さんが?」
「そうだよ!」
力強い声で応えた後で夫はフラフラとよろけるように壁に手を当てた。
「大丈夫?血圧高いんだからあまり興奮しない方がいいわよ」
笑みを消し去り歩み寄る私に二度ほど頷いてから掌に導かれるようにソファーに腰を下ろす。それから背筋を一度伸ばして大きく息を吐き出す。安堵とも言える息で顔の皺も普段よりも多く見えた。
定年を機に小説を書き始め、地元新聞社の小説賞に毎年応募していた。確か今年でちょうど十回目だと言っていたような……。
「さっき電話があったんだよ。受賞したからって―――」
弾む夫の声に水を差すつもりもなかったが、「何かの悪戯とかじゃないの?」俄かに信じられない私は冗談交じりの口調で声を掛けた。それでも私の表情も自然と緩んでいた気がする。
いつかは取りたいと慣れないキーボードに向かう姿を何度となく見ていたのを思い出す。登録してあった新聞社からの電話であることからしても疑う余地はないのだろうとお茶を差し出しながら夫を労った。結婚して家を出た娘たちがこの場に居たらさぞかし賑やかになったに違いない。
「ってことは取材とかもあるんじゃないの?」
不意にかつて新聞で見た記事を思い出した私は夫に訊ねた。受賞した人の顔写真なども記事と共に掲載されていた。
「ああ、それで取材の日程なんかもさっき話していたんだよ」
興奮した口調で話してから夫は一人ソワソワしている。
「取材かぁ~!まさか俺がなぁ~」まんざらでもない顔で天井を見上げている。
「良かったわね!」こんな笑顔を見るのはいつ以来だろうかと私はその横顔に向かってそっと呟いた。娘たちにもすぐに知らせた。もちろん二人とも驚いていたし、大いに喜んでもくれた。
取材の日取りも決まってからは何かと慌ただしかった。どこで取材を受けるのかと夫も悩んでいたようだ。自宅か近場の喫茶店。あるいは新聞社に出向くのかといろいろ心配していたが、結局のところ執筆している場所が良いだろうと二階の洋間に決まった。
ただ、決まったからと言って終わりではない。普段あまり掃除もしていない部屋だ。掃除はもちろんのこと余分なものなど片付けた方が良いだろうと、あれこれ相談しながら私も手を貸す。思いがけず部屋が奇麗になっていく喜びに加え、なんだか自分が受賞したようにも思えて来たりした。
夫はその後、床屋にも出掛け新しい洋服も買って来たらしい。ヨレヨレの一張羅じゃ見栄えも悪いだろうし、無理もないと私は目を細めた。
取材当日、時間通りにやって来た記者と共に二階に上がった夫は何を話していたのだろうか。私が尋ねても新聞に出るまでのお楽しみだと一切を口にしなかった。掲載になるのは二週間後だという。それでも時々、「あれだけ話した内容をどう記事にするのか楽しみだよな」と思い出したように呟いていた。
家の電話が鳴ったのはちょうど掲載予定日の一週間前だった。この日は珍しく上の娘が遊びに来ていた。聞き覚えの無い声を耳に私の表情が次第に青ざめていく。ぎこちない受け答えに娘も不安そうな目を向けている。咄嗟に娘が駆け寄ってくれなければ私は家の中で大きな音を響かせていたに違いない。夢だと思いたかった。夢だと自分に言い聞かせてもいた。
それからの数日はとにかく慌ただしく私の脳裏から受賞などという文字は消え去っていた。
「凄いねお父さん……新聞に出るなんて」
掲載された写真を見ながら下の娘が涙声を漏らす。
「血圧の薬は飲んでいたんでしょ?」
上の娘の問いに私は小さく頷く。
「もうじきだなんて興奮しちゃったのかもしれないわね。家でのんびりしていれば良かったのに」そう言ってから私は仏壇の遺影に目をやる。
目撃した人の話によると車の挙動は不自然だったという。恐らく眩暈か何かでハンドル操作を誤ったのだろう。
「あれほど掲載を楽しみにしていたのに自分で読めないなんて。三山ってよりも散々だったわね……」
それから新聞を遺影に向かって開いた。
「おめでとう……お父さん」
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