孫と芝

 草刈り機の片方の取っ手にグイと力を入れ、額から流れ落ちる汗を腰元に提げたタオルで拭う。八月もなればこんな光景はお約束で、俺はまた目にも鮮やかな芝生に目を向け機械を操る。


 娘などは手押しの芝刈り機の方が楽だとぬかすが、老人の手押し車のようでどうも好きにはなれない。やはりこの長年連れ添った相棒が一番だと計ったように刈り高を揃えていく。


「良さん!精が出るね」


 騒音の中に混じる声に顔を向けると近所の小沢さんが目と皺を一緒にして片手を挙げている。定年してどれくらい経つとか聞いた覚えがあるが、実際小沢さんがいくつなのかはわからない。たぶん、俺より二つ三つ上の七十ちょいというところだろう。


 俺は話を聞こうと刃の回転を止めた。


「一見の価値があるってのは、良さんとこの芝を指すんだろうな。今年も見事なもんだ」


 照れ笑いを浮かべて頭を軽く下げたが、芝へのこだわりは誰にも負けないと自負している。良作と言う名前は体ではなく芝を表すというのが俺の持論だ。


 小沢さんが散歩を再開すると同時に俺はレバーを握る。するとチュルチュルチュルンと心地良い音に声が混じったような気がした。しかし、俺はお構いなしと作業に集中する。



「お父さん!」


 やや怒鳴るような声にエンジンを止めて振り返った。娘の亜紀が呆れ顔でこっちを見ている。


「も~っ、何度も呼んだのに。最近耳が遠くなったんじゃないの?」


 草刈り機の音でと弁解はしたものの、少し遠くなったのは事実だ。だが俺は久しぶりに見る娘の顔にピンと来た。


「亮も来たのか?」


 そんな言葉よりも早く五歳になった孫の亮が庭に飛び出してきた。


「お~っ!来たか」


 俺はその無邪気な笑顔にしたたり落ちる汗も忘れて満面の笑みで応えた。


「お爺ちゃんちの芝は一番だね」と言うなり涼はあちこち走り回って側転を披露した。


「奇麗になってるだろ。ここだけの話だけどな、おばあちゃんより大事にしてるんだぞ」俺はそう言って不格好に片眼を瞑る。


「でもこれは涼と俺だけの秘密だからな」

「わかったっ!」


 こんな会話も疲れを吹き飛ばしてくれる。あまり芝を踏まれることは好まないが孫だけは別だ。俺は一旦草刈り機を手放し、亮と一緒に芝の上で寝転んだりして時を過ごした。土にも栄養は充分行っている。フカフカの絨毯だ。


 

 孫が喜ぶ最高の芝をと成長盛んな真夏のとある日、俺は再び草刈り機を操っていた。芸術のような揃った芝を目指して神経を集中させていた時だった。不意に視界の中に有り得ないものが映り込んだ。そしてすぐに何かがはじけ飛び、絵の具を撒いたように芝面が赤く染まった。


 何が起こったのかすぐには理解できなかった。大声で泣き叫ぶ声に我に返った俺だが、頭の中は真っ白に染まっていた。


「きゅ…救急車!」


 それでも家に向かって大声を張り上げた。はじけ飛んだのは孫の亮の手の指だった。いきなり来て俺を驚かそうと思ったらしく、間が悪いことにそこで転んでしまったらしい。


「亮が悪いんだから」


 娘の亜紀は労ってくれたが、気休めにもならなかった。幸いにして早く処置したことで涼の指は多少時間は掛かるものの、普通に使えるようにはなると医者は話してくれた。とは言え、あれ以来娘も孫も顔を見せなくなった。


 虫の音と共に涼しい風が顔を撫でるようになった九月に入っても、俺は草刈り機を手にすることなく不揃いに伸びた芝を見つめていた。一気に刈り込めば軸刈りと言われる高さだ。俺はじっとそんな芝を見つめてから徐に腰を上げ、如雨露に水を入れ撒き始めた。中に入っているのは肥料ではなく根こそぎ枯らす除草剤だ。


「…ごめんな」


 撒きながら思わず声が漏れた。そして次第に一本一本の芝が一色の緑に変わっていった。タオルで拭いているのは目元だった。それから如雨露を投げ捨てると、俺は鍬を持ち出し芝面に突き立てた。


 何度も…何度も…。


 妻の茂子が窓越しから見ていたが止めようとはしなかった。こんな時は長年連れ添った夫婦だ。俺の心情がわかっているのだろう。


 あの相棒も処分しよう。そんなことを思った時、ふと茂子がやりたいと言っていた家庭菜園とやらの畑にしても悪くないと、俺は泣き笑いの顔で鍬を振り上げた。

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