サムパーム
「すごいっ!」
パッと明かりが灯ったかの瞳の彼女に、俺は馬鹿の一つ覚えのように繰り返したことが報われたと心の中で安堵のため息を漏らした。そして、見えないようにテーブルの下で控えめにガッツポーズをする。
会社の暑気払いに参加したのは総勢四十名弱。それほど大きい会社でもないのでほぼ全員に近い人数だ。俺たちの製造C班は広い座敷の一番奥のテーブルに着いていた。あまり目立つ位置でもなかったことから俺は密かに好意を抱いていた佐藤久美さんに簡単な手品を披露した。
社内でも控え目でそれほど可愛らしい子でもないのかもしれないが、何となくその優しい笑顔に俺は惹かれていた。
サムパーム。手品では定番なもので親指と人差し指の間にコインや煙草を挟んであたかも消えたように見せる芸当である。やり方をあれこれと調べ、この日に合わせて猛特訓をした。出来るのはこのくらい。だから大勢の前で見せるほどでもない。地味な手品は地味な場所に相応しいとお披露目は一瞬で終わった。
後に取り出した煙草を箱の中に仕舞いこむ。幸いにしてそれを目にしたのは久美さんだけだった。この日以来、久美さんとの距離が縮まったようにも思えた。
「みんなの前でやれば良かったのに」
会社の駐車所に向かって並んで歩いている時に、久美さんは俺に笑顔で話した。
「いや~、このくらいの芸じゃ部長の宴会芸には遠く及ばないって言うか、白けさせるだけだろうから」俺はつい苦笑を漏らした。
「でも私には見せてくれたじゃない」
「まぁ、ちょっと退屈そうに見えたから」
本心を言うわけにもいかず、適当に言葉を濁した。
「やっぱりそんな風に見えちゃったんだ。どうもああいう騒ぎは苦手と言うのか‥‥」
照れ臭そうに小首を傾げ、久美さんは肩までの髪を僅かに揺らす。
「俺も同じさ。仕事よりも疲れるような気がしてさ」顔を左右に何度か振って俺は笑う。
「今度、もっと凄いのを覚えて皆をアッと言わせちゃったらどう?」
「もっと凄いの?あんまり器用な方じゃないからな~。でもそれも案外悪く無いかも」
あっさり否定しても久美さんの機嫌を損ねるような気がしたため、俺は明るく言ってまだまだ暗くならない夏の空を見上げた。些細な会話が切っ掛けにでもなったのか、その後、俺と久美さんは仕事以外でも会うようになった。
三度目のデートの時だろうか。喫茶店を出た時に家に来ないかと久美さんに言われた。家に車は一台しか止められないからと、近くのショッピングモールに車を置いて二人で並んで歩いた。どのくらい歩いた時だろうか、不意に久美さんから煙草を持ってるかと尋ねられた。
「煙草吸うの?」
「違うわ」
不思議に思いつつも一本の煙草を差し出すと、以前俺がして見せたように久美さんは煙草を消した。サムパームだ。
「久美さんも出来るんだ」
思わず出た言葉だが、その鮮やかな手つきに俺は正直驚いた。でもタネは知っている。そこに煙草が挟んである。そう思ってじっくりと華奢な手を見つめていた俺だったが、久美さんが開いた両方の掌を見て呆気にとられた。跡形もなく煙草が消えていたからだ。それから久美さんはニコって笑ってある方向を指さした。
「あそこが私んちなの」
俺は見開いたままの目を移動させる。そこには『佐藤手品店』という文字が見えた。手品にも驚いたが、その看板にも驚いた。
「小さい時からお父さんにいろいろ教わっているの。元々はお爺ちゃんがやってた店なんだけど。今の手品もあとで教えてあげるね」
突然、笑いが込み上げて来た。恥ずかしいやら嬉しいやら複雑な笑いだった。
「おーっ!」
その年の忘年会の席で俺はみんなの前で手品を披露した。耳が痛くなるほどの大歓声に包まれた。俺は笑顔を振りまきながらその陰の功労者に視線を送る。言うまでもない。久美さんである。何も知らないように久美さんは奥のテーブルで手を叩いている。
彼女の気を惹こうと取り組んだサムパームも今にすれば無意味でもなかったような気がする。その翌年、俺と久美さんは披露宴という会場で拍手に包まれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます