渡良瀬橋

 足利駅の出入り口前に佇んでいた私は腕の時計に目を移す。


「そろそろかな」ポツリ独り言を呟いて視線を移すと一人の男性と視線が交わる。それが合図とばかりに互いの顔に笑みが浮かぶ。

「待った?」これが彼のお決まりの挨拶。「ううん」と私が応えるのもお約束。


 それから手を繋いで街を歩いて食事をするのが二人にとってのデートコース。彼の名前は裕也。私と同じ二十五歳でいつも県外から月に一度だけ電車に乗って会いに来てくれる。


「お母さんの具合はどう?」歩きながら裕也が訊く。これも彼の決まり文句。


「あまり変わってないみたい」考えたら私の答えも代わり映えしない。


 体の弱いお母さんはずっと入院を続けていて一人娘の私は仕事と病院と家の往復だけ。それで一日が終わってしまう。それでも年頃の娘を案じて裕也とデートするよう言ってくれる。だから私も少しだけ甘えて月に一度だけと決めた。


 裕也も何度か病院に一緒に行ってくれたことがある。優しそうな人柄をお母さんも気に入ってくれたみたいで病気であることを忘れさせるような笑みを浮かべてくれた。


「俺もこの町に住んでみたいな」渡良瀬川の土手を歩いている時、裕也は近くの橋の上の夕日を見ながら言った。


「だって鉄工所を継がなきゃならないんでしょ?」

「まぁ、そうなんだけどさ。町工場ばっかり密集してて空気も汚れてるのか、こんな夕日を見る機会なんて無くてさ」

「でもここにくれば見られるじゃない。毎日ってわけにはいかないけれど」


 掴んだ手に力を入れると裕也も握り返してくれる。互いにやり場のない思いを手に込めてしまうのだろう。


「この前、八雲神社にお参りして来たのよ」

「お参り?なんて?」

「お母さんの病気が良くなりますようにって。それからもう一つ」


 クスッと笑う私を裕也が不思議そうに見つめた。


「裕也が浮気しませんようにって」


 それを聞いて裕也は笑いながら顔を左右に振る。こんなひと時が私にとって掛け替えのない時間でもあった。本当は裕也と結婚できますようにって祈ったのだけれど、裕也の立場を理解している私には言い出すことは出来なかった。


 家には電話がないので裕也との連絡は床屋の前の公衆電話だ。家から歩いて五分ほどなので便利と言えば便利。電話をするのは決まって第二土曜日の夜。


 明日のデートの確認程度なのだが、その月は裕也のお母さんが出て都合が悪いからと言って切られた。翌月はお父さんだった。電車の時間もわからない私は駅にも迎えに行かなかった。きっと心の中で何かを察したからなのかもしれない。



 北風が吹き抜ける渡良瀬川沿いの土手を歩いていると心まで風邪をひきそうな気がして、堪らず私は河原に降りた。日が落ちるまでにはまだ僅かばかりの時間がある。泣き顔を曝すよりもここで涙が乾くのを待てばいい。


 そんなことを考えながらぼんやり川の流れを見つめていた私は、川面を染める色彩に視線を上げる。鮮やかな夕日が渡良瀬橋の上に見えた。いつか裕也と見た時のような色合いだ。しかし、見ているのが辛く視線を落とした時だった。


「由紀っ!」悲しみのあまりいよいよ幻聴も聞こえたのかと何気に振り返ると、土手の上に一人の男性が立っていてすぐさま駆け下りて来た。裕也だった。


「家に行ったらいないからさ。もしかしてここかなって」


 思わず私は裕也の胸に飛び込んでいた。八雲神社の神様が泣いてる私を哀れんで最後に一度だけ裕也に会わせてくれたのかもしれない。


「なんで泣いてるんだ?」

「だって‥‥‥」そこからは言葉にならなかった。


「ごめん。会いに来られなくて。でも俺は決めたよ。それを言いに今日は来たんだ」

 

 温かく広い胸で泣けたのだからもう何を言われても良いと思った。


「この町で暮らすことにした。だから仕事もここで探す」


 裕也の声に驚いて顔を上げた。


「鉄工所は?」

「ケンカ別れってほどでもないんだけど親を説得してた。ちょっと時間かかっちゃったけど―――」


 裕也はそう言ってニッコリと笑ってから「風邪ひいちゃうぞ」と着ていたブルゾンを私に羽織らせてくれた。再び私は渡良瀬橋に目を向ける。


 あれだけ物悲しく映っていた夕日が一転して今までで一番奇麗に見えた。

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