最終判決所

「で、カッとなって殺した。間違いないな」


 脳の中で反響するかの声に俺は懸命に記憶を辿り続ける。


 確かにカッとなった。そして立ち去ろうとする後姿に時間が止まるのを感じた。それから…そうだ。倉庫脇に置かれた消火器に目を移した。掴んだ。いや、これで殴ってやろうと思っただけだ。


 思っただけ?


 でも、今しがた殺したと訊かれた。ということは…やってしまったのか?


 油が切れた歯車のような状態の脳に活を入れる。だが、肝心な部分が思い出せない。


「まぁ、だんまりを決め込んでもいいが、ここじゃ生憎黙秘権とやらは存在すらしてないし、事実はすべてわかっているからな。尋ねたのはあくまで確認だ」


 感情の無い淡々とした声に俺は考えるのを中断して顔を上げる。


 五メートルほど先に置かれたテーブルに蝋人形のような男が一人。瞬きもせずに俺をじっと見つめている。周囲は薄暗い。どこかの部屋なのか。そもそもここはどこなんだ。疑問が顔に現れたのか、男の瞼が少しだけ動いたように見えた。


「平たく言えば最終判決所ってところか」


「最終…判決…」理解出来なくてぎこちない言葉だけが口から零れていた。


「生前、どれだけの罪を犯したのか。それによって来世を如何にするか決定する場所と言えば分かり易いか」


「生前?…ってことは?」

「そう。もうお前は死んでいる」


 どこかで聞いた覚えのある台詞にも聞こえたが、重苦しい声は冗談とも取れず次の言葉を失った。


「上司の男性を殺した後でお前は会社から飛び出した。そして車道に出て車に轢かれた。いうなれば自業自得」


 そういえばと俺の脳が徐々に回転を始める。会社から走った記憶が蘇る。そのあとはわからない。つまりはそこで事故にあったということか。


「それでだ。今は人生百年時代。従って一人殺したので百年はあの世に居続けることになる」

「百年!?」


「おっと、肝心なことを忘れていた。判決に加味されるのは人間だけではない。蚊も殺しただろう。セミも殺しただろう。セミは一週間なんてことを言うが、実際は一ヶ月近く生きるというから、それらをすべて合算すると―――」


 呆然と言うのか、半ば投げやりにでもなっていたのか、正面からの声はまともに耳に入って来なかった。どのみち死んでるんだ。しかし、蚊を殺したことまで加わるとは思いもしなかった。誰でも当たり前にやってることだろう。


 人はともかくとして…。


「で、百六十五年後の来世はザリガニという判決になった」


「ザ…ザリガニ?」

「そうだ。しかも海外に行きたいと思っていたお前には打ってつけのアメリカザリガニだ」


 開いた口が塞がらず、まるで死後硬直のように固まってしまった。有り得ない。人間じゃないのか。苛立ちを力に変えて俺は身体を揺らす。それと同時に正面の男が霞んでいく。



「いくらなんでもザリガニって―――」


 そう声を発した気がする。すると今度はいろんなものが視界に映り込んだ。そこがどこであるのか理解するのにしばしの時間を要した。



「夢…」


 ぼんやりしたまま額を拭う。手の甲は汗でびっしょりと濡れた。スマホが鳴ったのはそんな時だった。


「気分は良くなったか?」


 電話の相手は殺したと思った上司で声を聞いた途端、驚きと同時に安堵もした。


「ええ…今はだいぶ」

「そうか。気分が悪いって帰ったからちょっと心配したというか―――」


 上司の声にはどことなくぎこちなさを感じた。何か言わなければと言葉を探していると、「あの時はちょっとカッとなっちゃってさ。俺もちょっと言い過ぎたかなって。悪かったな」照れ臭そうな声が耳に届く。


「いえ…俺の方こそ大人げないこと言ってすみませんでした」


 そもそも上司を怒らせた原因は自分にあることもわかっていた。それでもカッとなると後に引けない。大人になったら直そう。そう思いつつこれがなかなか出来ないでいる。


「明日は来られそうか?」

「ええ!這ってでも行きますから」


 通話を終えた俺は何か清々しい気分になった。同時に先ほどの夢を思い出して肩を揺らした。


「よりによってザリガニじゃなぁ~」


 ふと、足元に目を向けると一匹の蚊が臑に着地したところだった。咄嗟に手を振り上げたものの、叩かずに掌を振って蚊を追い払うにとどめた。

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