ぬくもりは永遠に

 親父が死んでも涙は出なかった。


 そのくせ誰もがつまらないという映画を見て泣いたりする。薄情なのか的がズレてるのか俺自身も良くわからないし、たいして気にもしていない。ただ、なんとなく良い人間じゃない自覚はある。


 人が困っていようが知らんふりだ。すべてにおいて冷めているのかもしれない。結構自分自身の分析は出来ているつもりだったが、無意識の行動までは把握しきれなかったらしい。



 通りの良い道沿いをトボトボ歩いていると、バス停の傍で一人の女の子がウサギのぬいぐるみと戯れていた。腰を折って時刻表を見ているのはきっと母親なのだろう。何か話しかけたり抱っこしたり、小さい子供だから特に不思議な光景でもない。


 それに目を細めることもなく通り過ぎようとした時、頭上に放り投げたウサギが車道へと飛んでいき、慌てて女の子がそれを追いかけた。


 一瞬の出来事だった。


 有り得ないという考えよりも先に身体が反応していた。女の子に追いついた。そう思った直後、激しい衝撃を受けうっすら目を開けた時には世界が90度傾いていた。とはいえ、それほど痛みは感じなかった。もしかすると極限の時に分泌されるというエンドルフィンのお蔭か。


 薄らぐ意識の中で聞こえたのは女性の悲鳴のような声だった。


 次に目を開けた時には見知らぬ部屋の中で横になっていた。鼻孔に届く香りから徐々に病院なのだと分かったものの、包帯も無く物々しい機械も見当たらない。きっと運が良く軽傷だったのかもしれない。


 そんなことよりも…。と俺は視線を横に移す。


 驚いたことに同じベッドに女の子が一緒に寝ているではないか。きっとあの時の子だ。同時に病床がどれだけひっ迫しているのかは知らないが、同じベッドに二人というのは有り得ない。


 ため息をつこうとした時、左手に妙な感触を覚えた。俺の手を女の子の小さい手が掴んでいる。違和感よりも安心するような温かさがなんだか心地よかった。



「おじちゃん?」


 不意に囁くような声が俺の耳に届く。声の主は女の子だった。高校二年の俺は最初誰のことなのかわからなかった。それでもこの距離だ。たぶん俺のことなんだろうと女の子の方に顔を向けると目線が合った。


「おじちゃん、痛かった?」


 心配そうな声に俺はすぐにかぶりを振る。


「ぜんぜん。へっちゃらさ」


 決して強がりではなく自然に零れた台詞だった。それを聞いて少し安心したのか、女の子の表情も心なし緩んだ。それから俺は手を繋いだまま女の子といろんな話をベッドの上でした。


瑠璃るりちゃんって言うのか」

「うん。瑠璃はリスさんから今度ウサギさんになるんだよ」


 通っている保育園の話や好きな食べ物の話などいろいろ聞かせてくれた。余程楽しいのか握っている手からも気持ちが伺えた。とはいえ、いつまで経っても開かない扉に俺はいつしか非現実という世界を思い浮かべていた。


 おそらく何かを悟ったのかもしれない。


「そうだ。お母さんが待ってるから瑠璃ちゃんは起っきしないと」

「イヤッ。おじちゃんといる」

「そんなこと言ってるとウサギさんになれなくなっちゃうよ」


 優しく諭すように言うと、名残惜しそうにしながらも瑠璃ちゃんは小さい体をゆっくりと起こした。


 

 閉じた目を再び開けると俺は静寂が似合う空間に立っていた。


 周囲の誰もが黒い服装に包まれていた。白い棺を前に手を合わせ何度も礼を言いながら泣き崩れている女性が居た。どうやらここは斎場のようだ。女性の近くにはウサギを抱えた女の子が一人。


 瑠璃ちゃんだ。


 ということは、あの白い棺の中には…。


 そう思った直後、肩をポンと叩かれた。振り返ると見覚えのある顔があった。


「親…父」

「良いことをしたな」


 ポツリと言って肩に置いた手に力を入れる。


「自慢の息子だ」


 無性にその言葉で俺は報われた気がした。そして親父がここに来た理由も察した。


「行こうか?」


 親父の声に踵を返しかけた時、瑠璃ちゃんが突然振り返って俺の方を見た。気のせいだと思いながらも俺は満面の笑みを浮かべて手を振った。すると瑠璃ちゃんが同じように手を振りながら叫んだ。



「おじちゃん!ありがとう」

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