誤審

 借りは返す。面越しに俺は訴えかける。望むところだと奴も睨み返す。


 一見、素人目には休んでいるかの鍔迫り合いも、竹刀を交えるものとすれば一瞬たりとも油断は出来ない。いつ引くか、きっと奴も同じことを考えているはず。それがひしひしと竹刀に伝わって来る。


 全日本剣道選手権大会。今年の舞台も武道館。そして決勝の相手は去年と同じ警視庁の山崎六段だ。


 白のタスキを着ける山崎はひとことで言えば冷静沈着。一瞬の隙を見逃さないところなどは流石警視庁だと何度も唸らされた。だが、一旦道着を脱げばその人柄は至って穏やか。特に一緒に酒を酌み交わす時などは戦士ということすら忘れさせる。ライバルは良い友人でもあるわけだ。


 その山崎が決勝まで上がって来たのは当然のことで、むしろ途中で敗退などと言うことの方が俺には予想すら出来ないことだった。おそらく奴もそう思っているに違いない。山崎はなんでも熟す業師でもあるが、やはり得意とするのは籠手だ。その籠手で去年俺は負け初優勝の夢は絶たれた。だからこの決勝は籠手で屈辱を果たすと猛特訓に励んで来た。


 四回戦、準決勝とすべて籠手で勝ち上がって来たこともいうなれば俺の意地。例え面に隙があったとしても俺は打たないだろう。狙うのは籠手のみだ。


 数知れぬ対戦で互いの手の内は知り尽くしている。それゆえ、ちょっとした隙が命取りになる。基本、剣道は三本勝負だが、どういうわけか奴と対戦する時は一本勝負になる。今日も同様で決勝の試合時間となる十分は既に使い切って延長に入っている。延長の勝負は一本。打つか打たれるかだ。



「ウリャーッス!」

 奴の声が面金の間から俺の顔面を震わせる。籠手を打ってこい。俺にはそう聞こえた。



「キョエーーッス!」

 必ず打ってやる。俺も声に気を載せて返す。


 竹刀は毎度のことながら強力な磁石か糊で貼り付いてしまったかのようだ。力を抜けば突き放され籠手を打たれる。しかし、力を抜かなければ中心から左手の位置を外さないで剣先の裏を通し辛くなる。つま先にはただならぬ緊張と興奮が入り混じっている。


 力んではいけない。相手は警視庁。しかしながらこちらにも県警の意地がある。奇しくも共に四十歳で六段。他人は俺たちの対戦を名勝負と称えるものもいるが、俺たちはけっしてそんなことは思っていない。むしろ迷勝負だと飲んだ時に奴は笑って言った。それに俺も相槌を打った。


 そう迷った方が負ける。すなわち迷勝負だ。去年の決勝では俺が引いたところで奴に紙一重のタイミングで籠手を打たれた。今回は違う戦法で行くか。いや、と俺は確信した。去年同様引いて勝負する。そして先に籠手を打つ。


「ウリャーッス!」

 奴が吠えた。俺も応えた。


 竹刀は密着したまま。それがいつ離れるか。そこが勝負の分かれ目になる。去年は引っかけずに面を避ける体制に入ったところを打ち込まれた。鮮やかな決まり手だった。同じ手を二度食らうわけにはいかない。だが同時に同じ手で俺が行くことも奴ならわかっている。


 竹刀にやや力を入れる。押した後で引く。いつ引くか。全神経を接触した竹刀に集中させる。瞬きですら今は一瞬の隙だ。


 そう思った瞬間、電流がショートしたかのように竹刀が離れる。互いに後方に飛ぶ。奴の目が一瞬にして遠ざかる。気のせいか笑ったようにも見えた。宙を舞いながら剣先が奴の籠手を捉える。手応えがある。


 勝った。


 しかし、俺の籠手にも何かが触れた感触があった。審判の旗が同時に上がる。俺は目を走らせる。赤か白か。上がったのは奴のタスキの白だった。負けた。


 いや違う。旗は俺が挙げていた。他の二人の審判は白。


「石川さん。小学生大会で誤審とはだいぶお疲れなんじゃないですか」


 いまだに俺の最後となったあの決勝は誤審だったんじゃないかと思う時がある


 それが忘れられないのか、現役を退いた今も無意識につい赤を上げてしまったりするようだ。

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