約束は50%
「やっぱり我が家が一番ね」
玄関に足を踏み入れた途端、妻の美恵子は記憶と照らし合わせるように周囲に目を向ける。それから俺の方を向いてニヤッと笑った。
「奇麗になってる」
「だろ。皆でやってたからな」
誇らしげな顔を見せると、そんな会話を耳にしたのかドタドタという足音が近付いてくる。
「お母さん!」
「ママ~ッ!」
二人の娘も満面の笑顔で妻を迎える。下の五歳になった真美など大はしゃぎで、待ちわびたように妻に飛びついた。
「こらこら。まだ退院したばかりなんだから」
そう言って俺は笑いながら娘の背中をポンポンと叩いた。
「お母さん、奇麗っ!」
見慣れぬブルーのワンピースや念入りの化粧が珍しく見えたのか、十歳になった亜実は目を輝かせて美恵子を見ていた。疲れた素振りも見せずにリビングの椅子に腰を下ろしても、美恵子の観察するような視線は止まらず、時に考えたり、あるいは微笑を浮かべたりしてした。
真美も亜実も次から次へと話を持ち掛ける。無理もないと俺はそんな姿をじっと見守った。
「元気になったの?」
「そうね」
「じゃ~、またみんなで温泉に行ける?」
亜実の問いかけに美恵子は思い出すように視線を上げ、良いわねと目を細めた。すぐには無理だぞと言いかけたが、元気な声の方が先だった。
「そうしたら私がお父さんのカメラで二人の写真を撮ってあげる」
「まぁ~嬉しい!」
会話を耳にした直後、俺はいそいそと歩き始める。美恵子と二人の娘が疑問そうな声を上げた。
「ちょっと腹が…」
振り返りもせずに一言そう言ってトイレに駆け込んだ。真っ先にレバーを捻って水を流すと、両手で口を力強く抑え込む。小刻みに身体が震えた。声だけは堪えたが、涙までは止められなかった。
―――「退院…ですか」
「ええ。奥様もご自宅で過ごされた方が―――」
担当医の言葉の意味は瞬時に理解出来た。と同時に全身にショックを感じ、立つまでには時間を要した。
二十歳で結婚して十五年。若さゆえの進行の速さに度重なる抗がん剤も役不足だったようで、転移は全身に広がろうとしていた。
せめて…自宅で。
これが医者の最後の思いやりだと俺は無言で頭を下げた。本人には告知はしていない。それでも家系が癌だといつだったか聞かされたことがある。きっと美恵子も薄々は気付いているのかもしれない。
日差しがたっぷりと降り注ぐ日曜日。俺は美恵子を庭に連れ出した。花好きの美恵子は咲き誇る花々に目を細める。
「随分増えたのね、日日草」
「ああ。こぼれ種ってやつなんだろう」
赤、白、ピンクと美恵子をまるで待っていたかのように咲き乱れている。不意にある考えが浮かび亜実を呼び寄せた。
「え~こんなところで?」
「練習だよ、練習」と自分のカメラを亜実に手渡す。
俺と美恵子は照れ臭そうに寄り添いレンズに向かって笑いかけた。
ある夜のことだった。隣の布団から声が聞こえた。耳元で飛び回る蚊よりも弱々しかった。
「どうした?」
起き上がり美恵子の傍に行くと、ゆっくりと瞼を開けて俺を見た。
「子供達のこと…お願いね」
「な‥何を急に…縁起でもない――」
その言葉に美恵子はすべて分かっているとばかりにそっとかぶりを振る。
「それと‥約束して」
「何?」
「泣かないって。涙は嫌だから」
「わかった…約束だ」
そう答えるなり俺は目元に力を入れた。しばらく互いの瞳を見つめあっていると美恵子が一言。
「また…会える?」
俺は口角を上げて応えた。
「もちろんさ。約束する」
美恵子が旅立ったことに気付いたのは翌日の早朝だった。優しく穏やかな寝顔を黙ったまま見つめていた。約束を果たそうと努めたものの、それは呆気なく崩れ去った。涙腺が壊れたかのように涙は止まらない。人目も憚らず嗚咽も漏らした。
約束の半分は守れなかったが、残りの半分は是が非でもと遺影に向かって、「必ず見つけるから。それまで待っててくれ」と語り掛けてから視線を右に移す。
フォトフレームに収まるツーショット。あの日亜実が写したものだ。
良く撮れてる。
そう心の中で呟き二人に向かって微笑みかけると、足元に写る日日草がほんの僅か揺れたように見えた。
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