スクランブル
いったいどれだけ居るのか。
地方と言われる田舎ならば一日でもこれほどの人数にはならない。周囲をさりげなく伺うように俺は頭よりも目を動かしている。それも淡い色の着いた眼鏡越しで都会の一角。誰も俺に注意を払う人間はいない。それがまた俺がここにいる理由の一つでもあるからだ。
先月は地方に居た。生まれ親しんだ街じゃないが、殺風景で人が少ない田舎は妙に落ち着かない。特によそ者には人一倍の注意を払う。だから歩いているだけでも否応なしに目立つのだ。やはり木を隠すなら森の中。うまい事を言うものだと俺はこの都会で言葉の意味をまざまざと痛感した。
目の前を何十台もの車が通り過ぎていく。まるで列車のように延々と連なっても見える。人も多けりゃ車も多い。当たり前のことを考えながら一人苦笑を漏らす。
あと…二日。
そう二日だ。時間にするとどれくらいだろうか。俺は一旦視線を落とし、着けてもいない腕時計に気付いて再びさらに口角を上げる。ちょうどその時だった。俺はどこからともなく伝わる強い視線に目を細めるように遥か前方を眺めた。
渋谷のスクランブル交差点の先に立つショートカットの女。さらに目を細めて見た時、俺はハッと気づいた。啓子だ。啓子は昔付き合っていた女で、妊娠したとか匂わされて結婚を迫られたので逃げたのだ。
あれから何十年経ったのか。それにしてもよく気が付いたものだ。いくら初めての男だからと言っても俺の風貌はあの頃のものじゃない。女の勘とでも言うべきなのか。ある意味、それは恐ろしくも感じた。
流れる車の合間からも啓子の視線は続いたまま。一度どこかに電話したのか笑顔が見えた。懐かしい笑顔だ。あの表情からして女友達あたりと買い物の話でもしたに違いない。
信号はまだ変わらない。ここで再会したのも何かの縁かもしれない。どこか飯でも行って昔話でもしようかと俺はあの頃を言う時間を思い浮かべる。まだ独り身なのか。いや今はそんなことはどうでもいい。大事なのはあと二日だ。
大勢の人が波のように動き始める。俺もそれに倣って足を進める。だが啓子は歩かない。まるで俺を待っているかのように。俺の顔に注がれる視線を辿るように啓子の元へと歩を進める。
周囲の人間を避けながら一歩一歩近づいていく。僅かの距離が時代を積み重ねていくのか、近寄るに従い啓子の顔は老けていく気がした。もっともこれは俺も同じだろう。目と鼻の先に立った俺は久しぶりとでも言いうように目で言葉を贈る。啓子も同様の仕草を見せた。
口を開いたのは啓子が先だった。
「桜井和久さんですね?」
他人行儀の言葉に思わず笑いだすのを堪え、「そうだよ。って言うか、よくわかったな。もしかしてまだ俺のことを忘れられないでいるとか」
気取ったつもりはないが、口からはついそんな台詞が飛び出していた。しばらく俺は女にご無沙汰だし、啓子の顔からも異論はないだろうと、さらに足を踏み出そうとした時、俺の両腕は見知らぬ誰かに強く掴まれていた。
慌てて左右に視線を送る。目つきの鋭い男が二人両サイドに立っている。それを見て啓子が続けた。
「桜井和久。殺人容疑で逮捕します」
穏やかな表情は演技だったのか、啓子からの視線は特有のものに変わっていた。
「啓子・・・・お前って…」
「しばらくぶりね。今わたし警視庁で刑事やってるの」
そう言ってから警察手帳を目の前に開いて見せた。咄嗟に力を入れて腕を振り払おうとしたが、両手を掴む男達も刑事なのだろう。離れるどころか彼らの腕がさらに食い込むようだった。
「もう、逃げられないわよ」
啓子からの台詞はまるであの頃の腹いせのようにも聞こえた。時間と共に人は変わる。しかし、まさか啓子が刑事になっているとは思いもしなかった。
そうか、あの電話でこの交差点名のごとく二人の刑事が現れたのだろう。
懐かしい女。そんな油断が俺の命取りになった。
でも、絶えず緊張して過ごす日々に嫌気が差していたのも事実だ。
それにしても、捨てて逃げた女によりによって捕まるとは皮肉なもんだと、俺は強張った身体の力を抜いた。
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