アマヤツカの効能

 百害あって一利なし。世間に出回る文言に灰皿を捨てたのはもう十年も前のことだ。


 どこからともなく漂ってくる煙にさえしかめっ面を見せる俺がまさか再びタバコを手にするとは思わなかった。いや、正式にこれは煙草と表現していいものか。なにせ世の中に流通していない代物だからだ。


 

 その男にあったのは水曜日の午後だった。突然の雨に俺は目についた商店の軒下に潜り込んだ。とうに畳んだのか、降りたシャッターが雨宿りを歓迎しているようにも思えた。


 掌で恨めしそうに水滴を拭っていると、傘を手にした男がゆっくりと俺の傍に立ち声を掛けてきた。雨の音にかき消されたのか、差し出されたものを見て煙草を吸いませんかと訊かれたのかと思った。無意識に手を振ろうとしたが、どうやら違ったようだ。


「買う!?」


「ええ、一本一万円。一箱で二十万です」


 抑揚のない声に綴られた台詞からよく耳にする裏商売を連想した。マリファナとかそういう類のものか。強い言葉で否定しかかった時、俺よりも先に男が口を開いた。


「これを吸えば、良い物語が書けるようになります」


 意表を突かれたように俺は男の顔をじっと見つめる。どこにでもいるような、それでいてこれと言った特徴のない顔だ。


「どうして俺がモノを書いてるって?」


 尋ねたところで先ほどと何一つ変わることなく男は煙草を差し出したままだ。もしや知り合いなのかと記憶を辿ってみても、思い当たることは無い。ならばなぜ俺のことを―――。



 新たに購入した灰皿を前に俺はゆったりと煙を吐き出す。乳白色が1DKの壁に溶け込んでいく。するとそれをスクリーンにしたように情景が浮かび上がってくる。目に映るのは人物や風景だけではない。無数の文字が字幕のように連なり、俺はそれを追うようにキーを叩いた。


 物語がぼやけてくると再び煙草に火を点ける。こんな動作を何度となく繰り返し、書き上げた原稿を編集社に郵送した。




「今年の芥山賞は―――」


 生計を立てているのはパートタイマーの仕事だけで、小説で食っていくのは最早夢と消えそうだった俺が、最初に手にしたのが芥山賞とはお釈迦様でも予想は出来まい。


 もっとも落選に次ぐ落選の俺だ。実力などとは思っちゃいない。いうなればあの煙草の効能だ。


 パッケージにはアマヤツカと記されていた。あの男の台詞に何か感じたのか、騙されたつもりで近くのコンビニで金を下ろした。全財産でもなかったが、二十万はパート暮らしの俺には高価だ。


 それでも印税が入ればと言う男の一声で勝負することにした。今にして思えばあいつは福の神だったのかもと、俺は急に山のように舞い込んだ依頼に寝る間を惜しんでキーを叩きメールで送信する。


 売れっ子作家とはこういうものかと固まった身体を解していると携帯が着信を告げる。編集者からだった。


「今、読ませてもらったんですが、どうしたんですか先生!これじゃまるで素人に毛が生えた作文ですよ」


 電話は一本だけじゃなかった。賞でも取れば仕事には困らないと安易に考えていたのだが、一発屋のつまらない作家と烙印を押されるにはそれほど時間は要さなかった。


 チヤホヤしてくれたいずれの編集者たちにも鼻で笑われるようになり、終いには電話でも居留守を使われるようになった。目論んでいた生業が崩れ落ちて行く。そんな音が聞こえたような気がした。呆然と俺は空になった煙草の箱に並ぶ字を眺めた。


 AMAYATUKA。


 ふと逆から読んで思わず目を見開いた。


 AKUTAYAMA。


 ――芥山。


 それから俺は意味もなく笑い頭を左右に振り、こんな出来事を書いてみたらという思いを打ち消した。ほんのひと時でもいい夢は見られた。


 そうきっとあいつは福の神なんかじゃなくて、作家業を断念させる案内人だったのかもしれないと、読書好きの社長に買われて、とある製本会社で働き出した俺は、キャラメル包装機を操作しながら思った。


 どうやらこちら側が天職みたいだ。

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