奏者
健康のためなんて言うと聞こえも良いが、実際のところは一駅分歩くことで小遣いを少しばかり増やすことにある。その浮いた金で好きな音楽CDを買う。
お気に入りはクラシックで特にピアノの曲には目がない。ただ、普段歩きなれないせいか、その一駅が途方に感じ、初めはへとへとだった。それでもだんだんと見慣れない景色に目を奪われたりもした。
比較的近所と言える場所でも案外知らないところも多く、立ち寄りたくなるような店を見つけるとケチ臭い行動にも価値を見出せるようにもなった。ピアノ教室も見つけた。ただし、近代的な建物は防音もしっかりしてるのか、ピアノの音色は聴くことは出来ない。聴いたところで俺の耳を引き付けるほどではないだろうが。
そんな街並みを過ぎてしばらく歩いた時だった。閑静な住宅街の中から心地良いメロディが俺の耳に届き思わず足を止める。
休日にはほぼ一日中、ピアノの曲を聴きまくる俺だ。ある程度の耳は持ってると自負している。一瞬、その見事さに大音量でステレオでも聴いているのかと思ったが、確かにこれは生のピアノの響きだ。
とはいえ、あまり長い時間立ち止まっているのも変だと俺は後ろ髪を引かれるように再び歩き出した。洋風の大き目の洒落た建物に相応しい手入れのいき届いた広い芝生の庭、駐車場に止められた二台の外車などから、裕福な生活がうかがい知れた。
その日以来、俺はそこを通るのが楽しみになった。聴こえない日もあったが、とりわけショパンなどが聴こえた時は、態とらしく人待ち顔でしばし聴き入ったりもした。想像するにきっと白く長い指の美しい女性ではないだろうか。鍵盤に触れるやわらかいタッチが俺にそんなイメージを抱かせる。
―――「吉田。午後は俺と付き合ってくれ」
係長に声を掛けられたのは昼飯を食べ始めた時だった。すぐに返事をしたが、疑問そうな目でもしていたのか、係長は小声で美人に会いに行くと言ってからニヤッと笑った。
「てっきり彼女でも紹介してくれるんかと思いましたよ」
「一日ピアノ聴いてる奴と付き合おうなんて物好きはそうそういないだろ」
俺と係長は歩きながらくだらない話で盛り上がった。
「人妻だけどな。一見の価値はあるぞ」
部長や社長に会いに行く足取りとは明らかに違って軽やかだ。訊けばその家はソーラーシステムをはじめ、オール電化などわが社の製品をいち早く取り入れ、おまけに何軒かお客も紹介してくれたらしい。課長の片手にあるのはおそらく菓子折りだろう。
「ここだ」
「え!?」
俺は思わず声を漏らした。
「なんだ。知ってる家か?」
「いえ、そうじゃないんですけど、このあたりをよく通るもので」
あらかじめ連絡してあったのだろう、インターホンの会話もそこそこに一人の女性が現れる。エレガントという言葉を俺の頭に浮かばせた女性は、目を見張るほどの美人だったが、ある意味イメージ通りと言っても良かった。
下げた視線の先にある指もしかり。長く細くそして白い。きっと包丁などは握らないだろう。その瞬間、曲と女性とが合致した。
やがて俺と課長は広い客間に通された。お決まりのような世間話が壁に消えかけた時、俺は振る舞われた紅茶を一口飲んでからピアノの話題を口にした。踏み込んだ内容からもただの社交辞令とは違うと女性も察したのか、謙遜しながらもその表情はどこか誇らしげだ。
「お詳しいんですね」
女性の言葉に照れ笑いを零すと、隣の係長はお約束とばかりに突っ込みを入れた。
「仕事よりもピアノ聴いてる方が熱心なくらいでね」
まさに事実だと俺は頭を搔きながらも白い指に視線を向ける。それだけでここに来た価値は十分だと思った。
奏者と曲がピタリと一致する。この瞬間がまた俺の心を高揚させてくれるのだ。またこの家の前を通る楽しみが増したと思った時、女性は何か思い出したように腰を上げ、紅茶の湯気の量も変わらぬ間に一人の男の子を連れて戻って来た。
「こちらの方が、
俺は呆気にとられた。
その後の話で彼はまだ小学五年生だという。築かれた確信というタイルが俺の身体から剥がれ落ちていくのを感じた。だからこそ、この子は名のある奏者になる。
いや、なってもらわないと困ると強く願った。
帰る道中、俺は家にあるCDを全部聴き直そうと黄昏の空を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます