熟成
「あの~、見えるところにバッグとか置かない方が良いですよ」
コンビニから出てきた車の持ち主と思われる女性に声を掛けると、驚いたように俺を一瞥した後で何も言わずに車のドアを開ける。一瞬見せた目には怒りの色も混じっていた。
「しかとかよ。せっかく親切で言ってやったのに」
小声でぼやいたつもりだったが、距離が近過ぎたようだ。乗り込みかけた女性は振り返るや、「親切?そういうのは大きなお世話って言うのよ」と目に力を入れる。こんな人目のあるところで争い事も体裁が悪いと、俺はゆっくりとかぶりを振って自分の車へと歩き始めた。
しかし、つい零した台詞が耳に届いてしまったらしい。女性は勢いよく車のドアを閉めると、つかつかと俺の方に歩み寄り、「ちょっと今、なんて言ったの?」と睨みつけた。まさかもう一度「あの日かよ」とも言えず、俺は横を向いて「何も」と惚けた。
それからまた女性を見る。両腕を腰に当てて仁王立ち。その表情には男を黙らせる凄みも漂っている。
とんだ相手と出くわしたものだと思いつつも、見方によっては美人にも見えなくはない。だが、いまさら何を言ったところで火に油と俺は車に乗り込み目を閉じた。
何も見えないはずなのになぜか視線を感じる。とんだ日だと口をへの字にした。
その日の夜、俺は親父とお袋に連れられて一軒の家を目指していた。聞くところによると酒屋らしい。
「小規模って言っても長年の付き合いでがっちりお客を掴んでるから売り上げ的にはなかなかのもんだぞ」
時折、首元のネクタイを直しながら親父の話をじっと聞いていた。親父の勤め先は酒の卸業。つまりはその酒屋とは仕事上の付き合いがあるわけだ。
「良い旦那さんだよ。だけど身体もだんだんきつくなって来たんだろうな。それに将来を考えると店の跡継ぎも欲しいって」
今時見合いだなんてと話を聞かされた時には鼻で笑ったが、退屈しのぎには良いと思ったのだろう。それと親父の顔を立ててやるのも悪くない。と俺は首を縦に振った。
「もし相手が居ないんだったら倅さんなんかどうかねって、強く言われちゃったもんだからさ。もちろん気に入らなければ断ればいいから」
婿に入って苗字が替わる云々の前に、その見合いとやらの体験に興味をひかれた。いうなればこれも人生経験の一つだ。
「その娘さんていくつ?」
「確か二十八とかだったかな。お前も今年で三十だから年齢的には悪くないんじゃないか」
県外にあるという酒屋に到着したのは夜の八時頃だった。すぐに待ちわびたように旦那さんと奥さんが満面の笑みで我が家を迎えてくれる。どちらも人の良さそうな感じだ。挨拶もそこそこに奥の座敷に通されるとテーブルの上にはすでに料理が並べられていた。
帰りは俺の運転と親父と旦那さんは早々にビールの栓を抜いた。親父、お袋、そして俺。長テーブルに対面する形で旦那さん、奥さんと腰を下ろす。だが、その隣は誰も居ない。
「ちょっと美紀はどうしたんだ?」
「少し仕事で遅れるってさっき電話が―――」
そんなやり取りの後に旦那さんは照れ臭そうに頭を下げた。
八時が八時半になり、やがて時計の針は九時を指した。目の前の二人の表情に重苦しさが滲んだ頃、「ただいま」という声がどこからともなく聞こえ、慌ただしく奥さんが腰を上げる。
何か一言二言の会話の後で再び襖が開けられ、奥さんに招かれるように一人の女性が現れた。
その顔を見た途端、俺は目を見張った。女性も同様だった。思わす声が漏れたのか、「もしかして知り合いだったのか?」と旦那さんは二人を交互に見た。
「あ…ま…知り合いというか…」
ばつが悪いとはまさにこのことだろうと俺は頭を掻く。気付けば女性は赤面している。どんなことを話したのかよく覚えていないが、いずれにしろ、食事会で終わることは間違いないと思った。
あれから五年。
結婚記念日には必ず美紀とそんな想い出話をしながら一杯やる。
年々熟成していく新しい苗字を思い浮かべながら。
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