チャンス

「カット~ォォ!」


 そう叫ぶのは何度目だろうと妙な喉の痛みが問いかけた。無意識に俺はぼさぼさに伸びた髪の毛を搔きむしる。ついでに顔を数回大げさに振っても見た。助監督の青木がおびえた目をこちらに向けている。無理もない。これでテイクいくつだ。俺は右手の指を見ながらこの数十分を振り返る。


「ちょっと休憩入れよう」ボソッと呟くとそれを助監督が皆に大声で伝えた。


 生気が抜けたかに椅子から立ち上がった俺は、ゆっくりとした足取りで自分の居場所を求め歩いた。すぐに青木がそばに来た。


「今のはちょっと良かったように思えるんですがね」


 俺は思わず鼻で笑った。


「あれじゃ素人芸もいいところだろ。いや、素人の方がむしろマシな奴が多いかもな。何度やっても台詞に感情が入らない」


 俺はまた頭を搔いた。


「でも、彼女の名前がテロップに出るだけでも集客がグンとあがるんですよ」

「確かにな・・・・」


 いったんそこで言葉を切ってから俺はこう続ける。


「そもそもモデルだろ。写真集やランウェイを歩くんならまだしも、ちょっと可愛いくらいで役者に挑戦なんてのじゃ使う方が堪ったもんじゃない。今回だって事務所に泣きつかれたから顔を縦に振ったけど、本当は別のキャスティングを考えてたんだ」


 いら立って吐き捨てると青木は何も返して来なかった。長年付き合いのある男だ。おそらく同意見なんだろう。もっとも俺もその事務所には何かと世話になったから邪険にも出来ないのだが。



「彼女、男は知ってるんだろうな?」

「え!?」


 前振りもなかったからか青木は素っ頓狂な声を出した。


「さすがに知らないってことは無いでしょ」


「二十八だっけ?」


「そのくらいですね」


 青木の言葉を聞いてから取り出した煙草に使い捨てライターで火を点けて一口大きく吸い込んだ。


「それとも皆飼い猫みたいな連中だった…か」


 乳白色の煙と共に腹の中の台詞を一緒に吐き出す。ため息も混じっていたせいで青木には届かなかったようだ。俺は青木に顔を向けた。


「このシーンは後回しにしよう。他の役者が痺れちまう」


 青木はわかったと目で合図をして足早に現場へ戻った。先の尖った煙草を見つめあれこれと思案する。妥協した時が監督の終わりのサインだ。こう教えてくれたのは俺が助監督時代に世話になった恩師の言葉だ。


 今ではその意味が痛いほどわかる。本来ならこの作品こそ見てもらいたかったと俺は乾いた唇を噛んだ。



―――「監督、今日はすみませんでした」


 その日の夜、俺は演技の打ち合わせと称して乾ネネを事務所に呼んだ。申し訳なさそうな乾に俺はソファーに腰を下ろすよう促す。大した時間は取らせないからとマネージャーには車で待つよう話した。


 乾がやんわりと座ったのを見て、俺は上着からアンダーシャツまで素早く脱ぎ捨て上半身裸になった。乾は何事かと不安な視線を送る。あまりに急だったため状況を理解出来ていないようだ。


「男ってものを教えてやる」


 そう言って俺は乾に近付いた。


「ちょっと…監督…や‥やめてください…いや…イヤ~~ッ!」


 間近に迫った顔に乾は声を荒げて抵抗した。


 クランクアップから約一年後、俺はとあるシネコンの出入り口近くに立っていた。


 サングラスに目指し帽、口元には付け髭と念の入りようだ。元々あまり表舞台には出ないので恐らく俺とわかる人間はそうはいないだろうと、公開初日の人の群れを待った。


 やがて館内からぞろぞろと人々があふれ出す。俺はじっと耳を澄ませた。


「意外と良かったよな」

「ああ。特に乾だろ」

「なんだか今までと違うって感じ」


 そんな言葉を聞き立ち去ろうとした時、不意に背後からそっと苗字を呼ばれた。何気に振り向くとサングラスにマスクをした女性が立っていた。すぐに乾だと分かった。


「評判も上々みたいで良かったです」


 見慣れぬウィックのせいか彼女を気にする人は誰も居ない。


「これも監督のおかげです」


「大したことはしてない」


「そうですね。結局何もしませんでした」


 ついニヤッとすると付け髭が落ちそうになった。


「でも、崖から突き落とされたような気がしました」


 隠された表情を俺はじっと見つめ、


「一歩間違えば突き落とされたのは俺だったかもな」


 独り言のように呟くと乾のマスクが僅かに動くのが分かった。


「いずれにしてもお前はチャンスを逃さなかったってことだ」


 乾はこの作品で助演女優賞を初めて受賞した。

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