開眼
上がり込んでくるなり毅は挨拶代わりと百円ライターを擦る。そして、腰を下ろすと目についた空き缶を引き寄せる。
「お前もよくそんな無駄に疲れることを続けてるよな」
やがて毅はタンクトップに短パン、両手にダンベルを持つ俺を見て口の端を上げる。
「お前の煙とは違ってこれは体に良いんだぜ。そうだ。お前もどうだ?」
呆れたという表情を浮かべて毅はすぐにかぶりを振る。
「俺が鍛えるのはここだけさ」と、自分の頭を指さした。
「確かにそこも筋肉だけどな」
滴る汗も拭かずに俺は言葉と息を交互に吐き出した。
「で、その筋肉で少しは書けたのか?」
毅は大げさに顔を左右に振る。
「十日で十行だ」
その言葉に脱力した俺はダンベルを両方とも下ろした。
「一日一行か?」
「ま~そういうなって。それより自分の心配したほうが良いんじゃないか。やってる割には体つきも変わってね~だろ」
毎度のことながら痛いところを衝いてくると俺は呆れたように笑う。
「栄養が足りね~んだろ。毎日袋麺じゃな~」
「寮住まいの新社会人じゃしょうがないだろ」
「うちの会社安いからな~」
親友でもある毅は俺の懐事情もよく分かっていると見えて、それ以上は何も言わなかった。ダンベルを床に置き額の汗を拭うと、俺は漂った煙を手で払うようにして胡坐をかいた。それから無言で手を差しだした。
すぐに毅は持参した茶封筒から白い紙を取り出す。自信があるのか無いのか複雑な表情を浮かべている。A4の用紙は三枚ほどあった。とりあえず文字はびっしりと埋まっている。十日で十行だとすればここまでどのくらい掛ったのかと、時折にじみ出る汗を拭きながら印刷された文字を追い始めた。
そんな俺に手持無沙汰にでもなったのか、毅は床にあったダンベルを掴んで何度か振り上げた。
「こんな軽いダンベルじゃ筋肉なんか付かね~だろ」
笑いながら話す毅に、「反動つけて早く動かすからだよ。ゆっくりやってみな。イ~チ、二~、サ~ン、ヨ~ンって感じで降ろすんだよ」
俺の言葉に何でもないと言わんばかりに続けていた毅だったが、十回を超えたあたりで表情が一転するのがわかった。すでに両腕はプルプルと震えている。
「意外と馬鹿に出来ないだろ?」
ダンベルを置いて息を吐き出す毅に俺はそう言って声を掛けた。
「重さが変わったのかと思ったぜ」
自分の二の腕を揉みながら毅は顔を綻ばせた。
「そこが筋トレの奥深いところさ」
俺はどうだと言わんばかりに口角を上げる。
「ちょっと面白そうだな」
意外な言葉でもあったが、座りっぱなしの毅にはむしろお勧めだと教本を差し出した。
「汗を流すことで案外良い話が浮かんだりするかもよ」
「言われて見ればな。それはそうと読んでみてどうだった?」
「そうだな~」と俺は眉間にしわを寄せる。
誉めてやりたい気持ちはやまやまだが、お世辞を言ったところで本人のためにはならない。それに毅も気付いたのだろう。
「自分でもわかってるんだよ。読んでても面白くね~って言うのか・・・・」
「煙草を吸えば良いのが浮かぶなんて言ってたのはお前だぜ」
「そんな気がするだけなんかな~」
毅はそう呟いて弱々しく顔を振った。
「書いて…みようかな」
ぽつりと零した台詞に毅はすぐに反応した。
「そうだよ。お前もやってみろよ。俺も筋トレやってみるからさ」
結局、これを原案として俺は普段ほとんど無縁とも言える小説を書くことになった。始めてみて思ったのは難しいということ。ただ、そこに楽しさも見出していただろうか。おかげですっかりダンベルは手にしなくなってしまった。あっと言う間に一年が過ぎた。
ノックもそこそこに毅が勢いよく部屋に入ってくる。
「すげ~じゃん。小説ばるす新人賞―――」と言ったところで目を見開いた。
「お前、それ…」
「ま~ちょっとな。言われてみれば良い文句が浮かぶような気もするかな。どうだ一本?」
「いや~俺はタバコは止めた。代わりに今はプロテインさ」
「それでマッスルフィジーク表彰台か」と俺の倍はありそうな二の腕を見つめた。
「三位だけどな」
互いに浮かべるどこか誇らしげな顔の裏には、何かを得たという感謝も含まれていただろうか。
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