ロマンス

 何かを考え込む表情からきっと不躾なことを言ってしまったのだと思った。生意気なやつだと思われたかもしれない。ボクはそれでも「一曲だけ」の理由を必死に伝えた。


 断られる。妙な沈黙にそんなことを頭に過らせた時だった。先生は納得したように顎を引き、その日からレッスンが始まった。目指すのは中学最後となるクラスでの演奏会だ。


 個人個人で披露するのだが、お目当ての彼女にいいところを見せたい。動機は単純である意味不純だとしても、ボクには入試よりも真剣だった。


 ギターは独学で二年ほど弾いていた。もちろん最初は仲の良い友達に教えてもらい、あとは自分なりに研究を重ねて指先の皮は何度も剥けた。他の友達は上手いと言ってくれた。ただ、それはアコースティックに限っての話だとすぐに痛感させられた。


 こんなオジサンがギターを弾けるのか。初めて見た先生に思わずそう思ってしまった。でっぷりとしたお腹に頭は禿げあがっている。実はアシスタントか何かで後から先生が登場するのかと思ったほどだ。


「ちょっと何か弾いてみてくれないか?」レッスンの初日に先生に言われ、技量を見るのだろうと、友達に評判の良かった曲を弾いて見せた。先生の右手が上がったのは僅か十秒後くらいだった。


 頭を二、三度縦に振り、「じゃ~始めようか」とだけ言った。どれほどのレベルなのか気になって尋ねると、「全然、弾けてない」と先生は一蹴した。ちょっと腹が立ったが、ケースからギターを取り出した先生はボクの目の前で弾くとはこういうことだと言わんばかりに軽やかに弾き始めた。


 アルハンブラだった。クラシックに疎いボクでもこの曲は知っている。というかボクの目は点になった。滑らかなそして生き物のように動く指も然ることながら、メロディとリズムを一人で奏でている。知らぬ間に口が半開きになっていて、しばらくしたら涎が出てしまうのではないか。頭をガツンとやられたボクは、この日のために用意したクラシックギターを片手にレッスンに通った。


 弾き方云々の前に注意を受けたのは姿勢だった。毎度のように言われた。押さえる指もそうだ。力が入っているのか、何度も先生に指を引っ張られる。ならば耳はどうかと言うとその自信も無残に崩れた。チューニングが微妙に合って無いのだ。


「それだけでもギターのレベルがわかるもんだよ」笑いながら先生は言ったが、確かにそうだと反論もせずボクはただ俯くしかなかった。


 発表会までは三か月ちょっと。当然のことながら学校から帰るとギターを弾く。レッスンから帰っても弾いた。遅い時間までやって親に怒られたことも一度や二度ではない。「ゆっくり弾いて弾けないようなら早くは弾けない」肝心の曲の練習に入っても何の曲かわからないほど一音一音が遅く、イライラしてくるほどだ。でも泣き言は言わない。その日まではと心に決めていた。


 二ヶ月もすると少しだけテンポも上がった。姿勢を直される。指を引っ張られる。弾いてる途中で先生が探るようにペグを回して音を調整する。まるっきりド素人と一緒だ。


「セーハはそんなに力を入れなくても良いんだよ。こんな小さい子だって出来るんだから」と先生は差し出した掌をグイッと下げる。


「音色が変わって来たな」三か月目に入った時に先生はそういってボクの右の指先を見つめた。


「力が抜けて滑らかに動くようになってきた」


 どうやらそれが音色に影響しているのだろう。なんとなく手ごたえも感じていた。テンポも次第にあがり曲らしく聞こえるようになっても来た。自然とボクの口元も緩む。いける。演奏を聴いた彼女が付き合ってくださいなんて言うかもしれない。良からぬ妄想も練習に拍車をかけた。


「じゃ、明日頑張ってこいよ」先生の送り言葉を胸に、ボクは当日を迎えた。曲は『ロマンス』通称『禁じられた遊び』である。


 用意した台に足を載せゆっくり息を吐き出すと、一音目を爪ではじいた。彼女がじっとボクを見つめている。恐らく、そんな気がしただけなのだろう。考えてみたらいつも弾いていたのは先生の前だけで、これほどの人数の前では初めてだ。終始ガチガチで演奏どころではなかった。


「どうだった?」


 先生に訊かれてもボクは首を振ることしか出来なかった。


「人前で弾くってのは難しいからな」

「そうですね。これからもよろしくお願いします」


 そう言って用意された別の課題曲を弾き始めると、少しして先生は姿勢を注意し、ボクの左の指を引っ張った。

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