湯気の向こうからの視線

 店内に響き渡る声を発した直後、店長の内山さんは俺の方を向いて軽く顎をしゃくった。その表情はいつもと違って怪しげな雰囲気を醸し出している。それに何かを察し店内の入り口付近に目を向ける。途端に鼓動が早まるのを感じた。


「いらっしゃいませ~」


 一応、形だけは客を向かい入れる声を出すものの、内心は穏やかじゃない。気が付けば周囲の店員も皆にやけ顔だ。


 からかっているのか応援しているのかは定かじゃないけど、カウンターの東側に座る女性に注文はおろか、水を運ぶ者もいない。店長の内山さんなど、目と鼻の先にいるというのに知らぬ存ぜぬだ。


「栗田~っ!早く注文取ってこい!」


 もたもたしてると店中に聞こえるような大声で俺を急かす。仕方ないと思いつつ俺は伝票片手にホールに出る。


「ありぁ~。栗田に惚れてるな」

「そんなことないでしょ」


 言葉で否定してみたところで、その女性の態度に誰もが気付いてる感じだ。もちろんそんな俺も彼女からの熱い視線を感じる。だから俺が行くまで誰にも注文を告げないのである。


 初めてその女性が現れたのはひと月前くらいだった。その時は二人で来た。きっと女友達なんだろう。だけど、その一週間後くらいには一人で食べにくるようになった。それも女性一人では決して入らないような場違いなラーメン屋だ。そして、決まってカウンターの東側に座る。そこからだと厨房が一望できるからで、当然、俺の姿も丸見えってわけだ。


 じっと俺を見ている。店員の誰もがそれに気付いて、あとはもう女性が来るたびに俺が指名される。控えめな声でそっと注文する。それを聴くだけで顔が赤くなるような気がする。たぶん、俺も好意を抱いているんだろうって思った。


 セミロングの髪に眼鏡を掛けていて、少し年上な感じだけど、注文以外に話したことはない。でも、その湯気の向こうからの視線からでも両思いなんじゃないかって気がする。それでも店の中じゃ声など掛けられないし、かといって帰りを待って外に出るのも・・・・。あれこれ考えても名案なんかは浮かばなかった。



―――「急に誘ったりして迷惑だったんじゃない?」

「いえ…そんなこと。むしろ誘ってくれてうれしかったです」

「そう!」


 俺は出来る限りの爽やかな笑顔で車のドアを開け、彼女をエスコートする。こくりと会釈して彼女はスカートの裾を押さえながら助手席に乗り込む。短めのスカートから覗く白い足に胸がドキドキと音を立てる。


「今日は山にでもドライブに行こうか?」


 そう言ってハンドルを握った俺は、いつの間にかハンドルが真ん中にあることに気付く。おまけにアクセルではなく二つの足で漕いでる。屋根もドアもない。さらには隣にいたはずの彼女の姿は無く、振り返ると後ろから丼を持ったまま走って付いてくるではないか。そこでけたたましい音と共に俺の目は覚めた。


 夢か…。


 とポツリ。こんな夢を何度となく見た。それから俺は苦笑する。車どころか免許だってまだ持っていないのにドライブが聞いて呆れる。バイクで誘うのか。それじゃぶち壊しだろ。


「早く声掛けないと誰かに取られちゃうぞ」麺を茹でる高橋さんにも言われた。


 わかってる。でも…どう話して良いのかわからない。


 一週間に一度のペースで来ていた彼女が突然姿を見せなくなった。煮え切らないとでも思ったのかはわからなかったけど、何かが終わったことだけは確かだと思った。


 そんなある日のこと。


「いらっしゃい」と声を上げた内山さんの顔が変わった。何事かと入り口に目を向けるとあの女性が居た。そして、そのすぐ横には見知らぬ男性。二人は笑顔を交えながらテーブル席へと腰を下ろした。


 店員の皆が落胆したような表情で俺を見ていた。俺は平然を装って一人澄ましている。だけど、何も出来なかった自分を悔いた。内山さんが俺のところに来てそっと耳打ちをした。


「栗田。裏に行って一服してこい」


 普段なら忙しい時間帯にそんなこと絶対言わないのにと、俺は内山さんの目をチラッと見た後、何も言わずに店の裏へと歩いて行った。それから徐に煙草を取り出して火を点ける。


 瞳には昨日と同じように星がいくつも瞬いていた。それでも今夜だけは少し滲んで見えた。

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