ユッケジャンスープ
「京子っ!来たわよっ!」
同僚の明美に言われて私は目を凝らす。そして、内心来たって思いながら鏡のように映る壁に向かって髪を整える。他の数人の女性店員は皆、その一人で現れる男性客に私がぞっこんなのを知っている。だから気を利かせて誰も接客に行かない。
それでもどこのテーブルに着いたかはすぐに情報を送ってくれて、私が向かうときは拳をギュって握って応援してくれる。いわゆる一人焼肉。以前、一度だけ友達数人と食べに来てくれたことがあったけど、私が知る限りはその一度だけ。あとは必ず一人で来る。
今でいうイケメンでもないんだけど、ドキドキしちゃう。その思いは熱した鉄板より上なんじゃないかって皆に冷やかされた。そう。これはきっと恋よ。
「五番の個室よ」弘美から言われて軽くうなずく。
「スカート少し上げてった方がいいんじゃない?」弘美の言葉にムッとする。
「そんな下品な女じゃないんだから」なんて否定してみたところで、それもアリかもって思っちゃったりもする。
「いらっしゃいませ」
お淑やかに、そして上品な声を出す。するとその男性はチラッとこちらを見る。この瞬間がたまらない。もう、倒れそう。いっそのこと前に倒れて抱き着いちゃおうかしら。
一人妄想していると男性がメニューを広げる。何度となく接客しているから注文はだいたいわかっている。カルビ、タン塩、それからご飯とユッケジャンスープ。男性が声を出す前に伝票に書いてる。まず外れたことは無い。
「京子!ちょっと鏡見てきたほうがいいわよ。顔が真っ赤!」
注文を取り終えて戻ると明美がそう言って笑い始めた。
「嘘っ!?」思わず顔を押さえたけど、なんとなく火照ってるのが自分でもわかった。
「それでどう?モーションは掛けたの?」
「ううん・・・・」
「もう~っ!なんなら水でもこぼしちゃいなさいよ」
「水を?」
「そう。うっかりした感じで。話すきっかけになるじゃない」
「それじゃ間抜けみたいじゃない」
すると、「水なんてダメよ」と話を聞いていた弘美が割って入る。
「いっそのことユッケジャンが良いんじゃない。それでお詫びに今度お食事でもって誘っちゃえばいいのよ」
他人事だと思って皆気楽だ。
「ユッケジャンなんてこぼしたら大火傷じゃない。それこそ店長の出番になっちゃう」
つい私は二人の案に首を振った。
「だったらお肉をちょっと焼いてあげるってのは?」
「それ良い!そして箸で持ってア~ンって」
「うん。君が焼いてくれた肉は最高に美味いよ」
「だったら、私もいかが?」
「イヤ~っ!」
私にとってもはや二人のやり取りは漫才のようにも見えた。だけど、そんなことが出来たらどんなに良いだろうかって内心思った。明美も弘美も私よりも可愛い。それに積極的だ。だから二人ともちゃんと彼氏がいる。
私も以前は男性と付き合ったこともあるけど、ここまでの気持ちになったのは初めて。たぶん、今までのはホントの恋じゃなかったのかもしれないって、一人で来る男性に思った。お客さんに声なんか掛けられない。でも、このままで終わっちゃうのも寂しい。
「電話番号を書いたメモを渡すってどうかしら?」ポツリ呟くと、
「また古風なやり方ね~」と明美が笑う。
「でも、意外と良いんじゃない?」そう言ったのは弘美だ。
それで私は洗面所に行ってメモを書いた。番号の下にはちゃんと名前も書いた。ドキドキする。本当に渡せるのか。なんて言って渡そうか。そう思った時、弘美から呼ばれた。
「京子!五番テーブルのランプが点いたわよ。チャンス到来!」
スッと表情を整えて私は店内の通路を歩いて五番を目指す。トレーの裏にメモも忍ばせた。テーブルと言ってもちょっとした座敷のようになっていて、扉を閉めれば完全な個室だ。ただ、追加で注文を受けたことがなかったので、珍しいなとは思っていた。
「お‥呼びでしょうか?」
扉を開けると、正面を向いていた男性がこちらを向いて目が合った。メモを渡すのなら今だと右手に力が入った時、
「実は注文で呼んだんじゃないんだけど・・・・」と言って男性が白い紙を差し出した。
「もし・・・・。もし…良かったらなんだけど、仕事が終わったら電話してくれないかな。これは…俺の番号」
私は呆然となって固まってしまった。
こんなことってある?夢見心地ってこんなこと言うのかしら。戻ったら明美と弘美に言おう。
私の顔と同じような真っ赤なユッケジャンを頭から掛けてって。
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