シャットダウン

「ワバッファ」


 わかったと応えたが出たのはこんな声。アンパンに噛り付いていた私は祖母の問いかけをよそに壁の時計に目を走らせる。


(ヤバい!)


 せめて朝ごはんだけはと思っていた私に許された時間は無く、残った大部分をテーブルの皿に戻すと、髪とスカートを乱すようにして走り出した。背後からは祖母の呆れたような声。それすら私を追いかけられないほどのスピードで外へ出ると自転車に跨った。


 こんなことならあと五分。遅く起きてしまった朝はいつもそう思うのだが、それも五分もすれば忘れてしまう。一心不乱にペダルを漕ぎながら忘れ物はないかと頭を巡らせる。制服の右ポケットに手を当てる。よかった。ちゃんと持っている。ハンカチなどは忘れてもいいけどこれだけは絶対忘れちゃいけない。そう一番大切なスマホ。


 学校が視界に入ったときポケットから音がした。LINEだとすぐに分かったけど見ている時間などない。私はさらに足に力を入れ門を目指す。割と髪の毛などには無頓着なくせして時間だけにはうるさく、八時半になると門をビシッと閉めてしまう。一秒でも遅れてもダメ。


 それも私を急かせる理由の一つには違いないが、ホントのところはそのあとに待ってる反省文を書かされることにあった。それも原稿用紙で五枚。ペンの進みの悪いあの光景が蘇って、私の自転車はさらに加速を続ける。


 門を通過したのは一分前だった。慌てて駐輪場から教室に向かう。まさに形振り構わずだ。


「セーフ!」教室に足を踏み入れた私は思わずそう声に出してから乱れた呼吸を整えた。

「千尋~っ。LINE送ったのにシカトなんだから~」


 仲のいい明美が声を掛けてくる。


「ごめ~ん。時間ギリだったから—-」続く言葉は吐き出される息で終わった。


 ゆくゆくは競輪選手かと門に立つ教員に揶揄されたこともある。あのスピードだ。そういわれても無理はない。毎日ギリギリってわけじゃないけれど、考えてみたらほとんど全力疾走って感じもする。パンツがきつくなったのは気のせいじゃなかったのかもと私は席に着くなり太ももに手を当てた。


―――「あら?今朝は珍しく早いのね」


 からかうような母親の笑顔を一瞥したあと私はすぐさま手元のスマホに目を移す。明美からLINEが来てる。それにすぐに返信。朝ごはんもゆっくり食べられ、時間の余裕も一緒に噛みしめていた。


「気を付けてね」祖母の声に振り向いて手を振る。ゆっくりとペダルを漕ぎ始めるとポケットに入れたスマホを左手に持ち、届いたLINEに目を通す。視線はあくまでも前方。画面を見るのは一秒か二秒。そうしていれば事故なんて起こらない。


 ましてやこのスピード。何かあればすぐに止まれる。ハンドル中央部分に移動させて右手で文字を打つ。こんな芸当は朝飯前だ。前を見る。そしてチラッと画面を見る。それからすぐに前方に視線を向ける。


 事故を起こす人はじっと画面を見ているからだ。私はそんなヘマはしない。


 ニュースが入った。画面をタップする。その表示された文字に「えっ!?」と目を見開いたとき、突然、私の身体は平衡感覚を失った。ガシャン!という音の後に鈍い痛みが私を襲った。


「痛~い」と目を開けると手に持っていたはずのスマホが遥か先に転がっている。何が起こったのかさっぱりわからなかった。スマホを拾いに行こうと立ち上がると左足に激痛が走った。慌ててその個所を見ると血が出ている。


 どうしてこんなことにと周囲に目を向けると一人の老婆があおむけに倒れている。嫌な予感が走った。


 口をパクパクさせ手足を痙攣させている老婆に私は足を踏み出すどころか声すらも出せずにいた。シャットダウンしたように明るかった私の視界は真っ暗に変わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る