いいコート
「おっ!しばらく」
手を挙げた後、その視線は俺の目から下へと落ちる。
「また随分と見すぼらしいの着て…いや、ヴィンテージと言っとくか―――」
学生時代から口の悪いやつだったが、俺自身誰かにそう言われるだろうと覚悟していたからか気にもならなかった。それよりもこんな雪がちらつきそうな冬の夜に同窓会を行うことの方が腹立たしかった。
スーツのまま来ようかとも思ったが、風邪でも引いたらと仕方なくこのコートを引っ張り出した。親父からもらったコートで、その親父も親父からもらった。つまりは祖父が来ていたコートだ。そのため、時代にそぐわないともらってから満足に袖も通していない。見栄を張るために奮発しようとも思った。しかし、町工場の安月給はほとんどが生活費に消えてしまう。たかが一晩のためにと俺は呆れたように頭を左右に振った。
同じ学校を出ても大手の企業に就職したやつは景気もいいのか、遠巻きに見てもわかるほどの高そうなコートを羽織っている。おそらくネクタイ一本でも俺の数倍はするのだろう。
元気な顔を見せ合うのか、現状自慢大会なのか、十年も経過すると同窓会の趣旨もぐらつく。もちろんそれも予想の範囲。そのため欠席も考えた。そんな俺の背中を押したのは密かに好意を抱いていた一人の女性だ。
名前は野村亜紀。早い人なら結婚して子供もいる年代だ。きっと彼女の性も変わっているに違いない。それでも一目見て少し話が出来ればと足を向けたのだった。
県内では名の通ったホテルのロビーは懐かしい顔で賑わっていた。とはいえ当然ながらわからない顔も多い。特に女性だ。化粧のノウハウも染みついたようでまるで別人のようにすら思える。名前と顔が一致しないのも当然だろう。すでに十分というほど暖められていたので俺は早々にコートを脱いで脇に抱えた。あとはお決まりのように会場で飲んで騒いであの頃の時間に近付いていくだけ。
子供が何歳になった。思い切って家を買った。課長に昇進した。あの外車を購入した。耳に届くのは俺にとって無縁な話ばかりだ。だから俺は聞く側に徹した。自転車で来たなどと言えばいい笑い話になるのがオチだ。適当に合わせているのが一番。
やがて幹事の閉会の挨拶が終わると再びロビーに人が集まった。皆帰りを想定してか自前のコートを羽織る。そんな時、数人の女性グループが近寄ってきた。その中に野村亜紀の顔もあった。
「おい、ちょっと杉村のコート見てやってくれよ。明治時代ですかって感じだよな」
斎藤の冷やかしに俺は苦笑で応える。
「あれ?斎藤君のって、ディオールじゃない!?」
「あ~、やっぱりわかっちゃう?」
ほろ酔いの斎藤は気分も良いのか、女性からの問いかけに待ってましたと裏地まで披露している。盛り上がる会話から一人外れたようにしていると声を掛けられた。
「しばらく…」少しはにかんだ口調だった。
「あ‥どうも。のむ…。ひょっとしてもう違う苗字変わってるかな?」
「ううん。まだ野村よ」そう言って彼女はニッコリと笑った。
「まだ、もらってくれる人が誰も居なくて」
こんな席だ。半ば冗談だと思ったものの、俺の心はなぜかホッとした。
「ねぇ、お腹空いてない?」
思いがけない誘いに浮足立ったが、俺はすぐに自分のコートに目を落とした。
「こんな格好だけど?」
「どうして?私には素敵に見えるわ」
車を持ってないことを告げても、彼女は顔色一つ変えずに歩きましょと目で合図を送りロビーから出て行った。
適当に切り上げて外へ出ると歩道の隅の方に彼女が寒そうに立っていた。それから自転車を押しながら人気のない舗道を彼女と歩いた。
「古そうなコートね」
「ああ、元々はお爺ちゃんが着てて、それから親父が――代々袖を通す形見みたいなものかな」
「形見…大切に使われてるのね」それを聞いて思わず笑った。
「ただ買えないだけだよ。俺にはいいコート…。どうでもいいの方だけど」
俺の声に彼女はかぶりを振る。
「そんなことないわ。良いコートよ。それに――」
そこで言葉を切ると彼女は感触を楽しむように腕を絡ませてきた。
今夜このコートを着て良かったと俺は夜空を見上げる。消えた言葉の語尾と天国でも探すように。
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