特別な目

 人間の目ってのはつくづく不思議なもんだと思うな。丸い輪っかのどっちが切れてるか。なんて視力のよし悪しもそうだが、聞くところによれば色だってホントは違って見えてるっていうから驚きだ。実際どんな色に見えてるかなんて訊くだけ野暮だろうけどな。


 そういや、昔、弟子になりたいとか言って俺の船に乗らせた奴がいたけど、三日で姿をくらましちまった。見込みがあるってそん時は思ったんだけどな。そういうてんじゃ人を見る目はねえってことになるか。


 不思議と言ったのは実はそんなことじゃねえ。俺はこれから死ぬってやつがわかるんだ。もちろん昔からじゃなくて、何度か見ているうちに自然と身に付けたって感じかな。


 凄い芸能人なんかはオーラがあるなんて言うけど、死に向かうやつも目に見えない何かを放ってる。オーラなんて凄いもんじゃねえが。一言で生気がねえんだ。笑っても話してもその背後に薄暗い影のようなもんが揺らめいている。最初は目の錯覚だと思ったけどな。


 ある時、その不思議な能力を活かそうと止めに行ったことがあったんだ。だけど一足遅くて間に合わなかった。海にドボンだ。慌てて探したけどとてもじゃないが飛び込めるような波じゃない。それで消防に連絡して、警察も来て、とにかく大騒ぎになった。


 しまいには新聞社まで来て根掘り葉掘り聞かれたよ。それがまた見殺しにしたみたいな訊き方で。同じことを警察でも何度も訊かれ、寝たのは夜中だったよ。それからかな。俺がそんなやつを見ても何もしようとしなくなったのは。


 きっと俺の前を通り過ぎて行った女もその口だろう。


 薄暗くなりかけたこんな場所で女一人歩いてる時点でおかしいもんだが、遠ざかる背中にはあれがはっきりと見えた。でも声なんか掛けはしねえ。その女の選んだ道だからな。止めたところで下手に恨みでも買ったらそれこそたまったもんじゃねえ。だから俺は何事もなくただ俯いて網の手入れをしているだけ。


 漁師というのは目が利く。人様が寝ているうちに出て行くんだからな。もちろん真っ暗い景色が明るく見えるわけじゃねえ。潮の匂いや風の向き。つまりは勘や経験だ。


 それでも目は重要で俺の生命線だと思ってる。だからってわけじゃねえが、周囲の色が黒く変わりつつあっても、防波堤を歩く女が見える。こんな冬の冷たい風が吹きさらす場所で網をいじってる奴なんか他にはいねえだろうから、たぶん見ているのは俺ぐらいなもんだろう。


 長いスカートがバタバタして捲れ上がってる。あんな華奢な身でよく飛ばされねえもんだ。寒そうにしてねえのは羽織った上っ張りのせいか。彼氏にでも振られたか。理由はなんであれ、俺の手が止まることはねえ。


 あの調子だと今頃は踵の高い靴を脱いでる頃か。前を通ったときにコツコツとこの辺じゃ聞きなれねえ音がしてたっけ。それがなんだか耳についてるのか頭の中でその音がまだ鳴ってるような感じだ。この分だといつもより酒を多く飲まねえと寝られねえかもしれねえな。


 ドドドーーーン!


 防波堤を壊すようなすげえ波の音が聞こえた。俺はじっと目を閉じる。そしてあの波だなと思った。


 いくつくらいなのかはわかりはしねえが、短い人生だったと煙草をくわえてマッチを擦る。シュッと灯った炎は強風で一瞬で消える。まるで儚い命のように。俺は燻ぶった棒を見つめた後で次のマッチを取り出す。


 不思議なもんだ。こうしていてもまだあの靴の音が聞こえている。成仏してくれよ。


 そう思った直後だ。


 背中をポンと叩かれ俺は体を震わせる。慌てて振り返ると防波堤に立っていた女がいた。驚き過ぎたのか咥えていた煙草が地面に落ちた。


「おじさん。この辺に南風荘って民宿があるはずなんだけどご存じですか?」


 軽やかな声に目を見開いた俺は、


「お嬢さんは、さっきあの防波堤の上にいなかったかい?」と思わず尋ねてしまった。


「防波堤?」


 そう一言呟いてから、


「こんな日にあんなところ行ったら落ちて死んじゃうじゃないですか」と女は驚きの声を上げる。


 俺が見たのは過去の亡霊か。


 そう思ったものの、特別な目はおろか、生命線の終わりをも感じた俺は、目を閉じて網から手を離した。

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