ぬいぐるみ
由美が死んで三年が経った。
時の流れの速さを感じつつも、あの楽しそうな笑い声は俺の脳裏から消え去る日は一日たりとも無い。瞼を閉じれば無邪気な笑顔が浮かぶ。決して忘れないために部屋はそのままにしておこうなどと涙ながらに妻と話し合ったものだが、妻が妊娠したことでその思いは少し変わりつつあった。
一つしかない子供部屋。いずれ生まれてきた子はこの部屋を使うようになる。男か女かはわからないまでも、姉が居たことはいずれ伝えればいいと最低限のものを残して思い出を整理することにした。もちろん忘れてしまうわけではない。俺はそう何度もつぶやいた。
実はこの部屋に足を踏み入れるのは久しぶりだった。換気してないせいだろうか、どことなく埃臭い。爽やかな緑色のカーテンは閉じられたままだった。俺はカーテンを開け、クレセント錠を外しガラス戸をスライドさせる。たちまちひんやりとした外の空気が部屋に広がり始める。それは何か儀式の前触れのようにも感じた。
___「ゆぅっみぃぃ~っ!」
突然、あの時の妻の声が耳に届く。悲痛な叫びだった。無理もない。俺ですら現実を受け入れられなかった。たった五年だ。俺は信仰もしてない神を恨んだ。
整理は俺だけでやると妻に言った。一緒にやればきっとあれもこれもと処分できずに終わるような気がしたからだ。辛いことを思い出し、お腹の子へ影響することも懸念した。
小さかったこともあり、机も教科書もないので手間はさほどでもなかった。あるのはおもちゃの類だけ。俺は半透明の袋にそれらを手際よく入れていく。あまり眺めないように努めた。じっくり見ていると手が止まってしまうと思ったからだ。
袋はすぐにいっぱいになった。次の袋を用意して可愛らしい棚に目を向ける。赤い籠の中にままごとで使うおもちゃの野菜が入っている。小さい手に小さい包丁を持つ姿が浮かんだ。すぐにそれを振り払うように籠ごと袋に入れる。すると籠のあった下に透明の袋があった。
線香花火だ。夏にやろうと俺が由美に買ってやったものだ。
「結局…出来なかったな」
今更火を点けたところで思い描いた光は放たないだろうと、ポンとそれを袋に投げ入れる。まるで持ってきた袋に合わせたような量だった。
残ったのは熊のぬいぐるみが一つ。由美が一番大事にしていていつも抱えていた。これだけは残そうと思っていた。
そういえば…。ふと俺は病院で由美と仲良くしてくれたという一人の男性を思い出した。彼はその後どうしただろうか。良い記憶だけ刻んでいてくれればいいのだが・・・・。
火曜日の朝。
俺は思い出の詰まった袋を両手に下げてゴミ収集場に向かった。人目を気にしたわけでもないのだろうが、時間外ともいえる早朝だった。きっと脇に抱えたものを見られたくなかったのかもしれない。それはあの熊のぬいぐるみだった。さすがに袋に押し込めるのは忍びないと、収集場にある棚の上にちょこんと座らせるように置いた。
「由美が待ってるから」
独り言のように呟いてから俺は家に戻った。唯一それが由美の忘れ物のような気がして、家を出るときに気が変わったのだ。燃えることできっと由美の元に届く。夢物語じみたことを真剣に願った。
出しそびれたゴミを持って金曜の朝に収集場に行くと、棚にあった熊は消えていた。ゴミとして出したのだから当然だ。そう思いながらも心はちょっと複雑だった。それが態度にも出ていたのか、「どうかしたの?」と妻に訊かれた。何でもないと俺は笑って見せる。
これで良かったんだろ。呟いた相手は自分だったのか、天国に居る由美だったのか。
次の火曜の朝。
俺は半透明の袋を下げ細い道を歩いた。妻の妊娠を期に代わろうと言ったゴミ出しである。この日は収集車が来る時間前とあって近所の人とも顔を合わせた。当たり前の挨拶を交わした直後、俺の目は収集場の一点にくぎ付けになった。
あろうことか一度消えたはずの熊のぬいぐるみが同じ位置に置かれている。
その目はまるで俺を見ているようだった。
ドサッと俺の手から袋が落ちた。
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