先生

 一泊三千円也。十日泊っても三万円。


 探せばあるもんだと俺は口の端を上げる。おまけに朝晩の飯付き風呂付である。無論風呂と言ってもユニットバスなんかじゃなくれっきとした天然温泉。こうなれば効能などは二の次でも良いと、案内された部屋の窓にある障子をそっと開ける。


 見えるのは鬱蒼とした木々だけで特に目ぼしいものは視界に入らない。


「こちらは初めてですか?」

 お茶を淹れる部屋係の女性の声が背後から聞こえる。


「ええ・・・まぁ・・・」

 観光目当てでないからか俺の口数は少なめだ。


「谷側のお部屋でしたらもっと景色が良いんですけどね」

 となれば三千円では泊れまいと腹の中で思った。


「いや、景色など見えない方が良い仕事が出来そうだからね」


 そう言いながら振り向くと女性は少しばかり首を傾げた。戸惑うのも無理はなかろう。だが、女性はアッと口を広げて表情を変えた。


「もしかして、小説をお書きになってる先生とか?」

「いや・・・先生って程でも」


 五十半ばくらいだろうか。伊達に歳は重ねていないと察しの良い女性に僅かばかりの金を包んで部屋を後にしてもらった。


 それから俺は衣類を脱ぎ備えの浴衣に袖を通し、一旦畳の上で横になる。ここまでの道のりは三時間弱。決して近くはないが疲れ切ってしまうこともない。昔は賑わっていたという話だったが、築何年だろうか。趣のある宿と小説ならば書くかもしれないと、徐に起き上がるとバッグからノートパソコンを取り出す。


 昔は万年筆にどっさりと紙を持って来た。思えば便利になったと電源を入れる。こんな古びた宿でWi-Fiがあるとは思えないが、下手にネットにでも繋げると厄介だ。

 

 今回、出版社は愚か、編集者にも行先を告げていない。文字通りお忍びの執筆活動なのである。そう思って早速続きでもと思ったが、旅の汗でも気になったのか俺はタオルを手に風呂へと向かうことにした。


 時折ミシミシと音のする階段を降りて然程広くも無いロビーの脇を通り過ぎ、殿方と記された暖簾を潜る。時間も時間だからか俺以外には誰も居なかった。湯船に浸かった俺は顔を擦って息を吐き出す。足は伸ばせるしお湯も悪くないと静かに目を閉じ話の構想を練る。


 値段相応の夕飯を食べてから部屋で液晶を眺めていると、「お布団を」と言って案内係の女性が現れた。


「お筆の方は進みましたか?」

 と布団を敷きながらこちらに視線を送る。


「ええ・・・ボチボチと」

「そうですか。それはようございました。私、読書が趣味で───」


 さびれた温泉宿で偶然会った物書きに興奮したのか、女性の声のトーンは些か高めだ。


「本名でお出しになってるんじゃないんですよね?」


 宿帳でも見たのだろう。適当に相槌を打ってその場を凌ぐと女性は明るい顔のまま引き上げて行った。


「どんなお話なんです?差支えなかったらでけっこうなんですが・・・」


 余程興味があるのか部屋を訪れた際は決まって執筆の内容だ。


「今はミステリーの方を」

「ミステリーですか!」


 幾分化粧のノリが悪くなった肌を隠すように女性は掌で口元を被う。その様子からこの手の話が好きなんだろうと思った。


 パソコンと向き合って、手が止まると風呂へ出掛ける。それで筆が進まないと下駄を突っ掛けて人気のあまりない温泉街を散歩する。飯を食ったら寝る。気が付けば予定の十日になっていた。


 その朝、身支度をしていると例の女性が部屋を訪ねてきた。


「先生、作品は仕上がったんですか?」

「完成ってわけじゃないけど、だいぶ捗ったよ。あとは自宅に戻ってからだな」


「そうですか。本屋さんに並んだら是非とも読ませていただきます」

 と女性は会話の流れを崩さぬようにペンネームを尋ねてきた。


「いや・・・こういうところでは明かさないことにしてるんだよ」


 残念そうな女性の後に続いてロビーで精算を済ませた俺は温泉街の外れにあるバス停を目指して歩き出した。


「先生か・・・」と俺は一言呟いてから首を左右に振った。


 書いたのは十日で三行。


 とてもじゃないが作家どころじゃない。ただ、作家気分だけは大いに味わうことが出来たと青い空を見上げて声を漏らした。



「さ~て、そろそろ仕事でも探しにハローワークでも行ってみるかっ!」

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