防波堤

 大陸を横断してここまでたどり着いたかの風が私の呼吸を一瞬止める。


 少しばかりよろけた途端、髪とワンピースの裾が大きく乱れ、思わず手をあて苦笑を漏らす。この場に及んでもまだ恥じらいが残っていたのかという笑いだった。頬を切るように吹く風すら感じないのにおかしなものだ。


 この容赦ない潮風が吹き付ける防波堤に立つのは二度目。ただ、季節はまるっきり違う。波も穏やかで子供のはしゃぐ声がどこからともなく聞こえていた。燦燦と降り注ぐ太陽の下、鼻を掠めていく潮騒の匂いもどこか心地よかった。私の心も日差しを反射する海面のようにキラキラと輝いていた。


 幸せだったから。


「こんなところにずっといないで早く泳ぎに行こうよ」

「そう言って私の水着姿が見たいんでしょ?」


 不意に今年の夏に交わした彼との光景が蘇る。半年前くらいなのに妙に懐かしく感じる。急に誰かに押された気がして私は後ろを振り返った。これも記憶の中の思い出が見せた幻か。確かあの時は本当に落とされそうな気がして本気で彼を叩いた。


「ごめん。ちょっと驚かそうかなって――」


 そんな悪戯好きなところも私は好きだった。


 あの時もこの青いワンピースだった。冬の日本海を前にこんな格好も不似合いなので厚手のコートは羽織ってきた。でもそのコートも今は無い。先ほど脱いで置いた途端、風にさらわれて海の中に落ちた。役目は終わったのだからと私はただ目で追うだけだった。


「結婚して…くれないか?」


 照れくさそうに話す彼の顔を思い起こす。そう言ってくれたのは紛れもなくこの防波堤のこの場所だった。一生忘れないと思ったのになぜかその表情が浮かんでこない。


 瞼の裏に残っているのは棺の中で静かに眠っている顔と、無性に明るく笑った遺影の写真だけ。前日に会った時にはあんなに元気だったのに。


 その彼が信号を渡っている時、赤信号を無視して突っ込んできた車にはねられたと聞かされた時には、初めて気を失うということを経験した。何かの間違いかと思った。泣いた。これほど人は涙があふれ出るものなのかというくらい。最後は声も出なかった。


 この思い出の地を訪ねたのはたぶん私の意志じゃない。


 一人電車で揺られながらずっと彼の誘う声が聞こえ続けた。


「あの場所で会おう」って。


 一周忌でお墓参りに行ってもきっと会えない。そう思った私は鉛色の空に覆われたここへとやってきた。僅かばかりの時間でも周囲は一気に薄暗くなる。もうこの色ですら遠目には青とはわからないと思った。おそらく人がこんなところに立っていることすらも。


「来たわよ」


 ぽつりと呟く。


 うねる波の音と吹き抜ける風の音で吐き出された声は自分にも届かないほどだった。それでも彼には聞こえているはず。泣き顔は見せない。そう誓ったから頑張って笑ってみた。はたして笑っていたのかどうか。寒さで頬が強張っていたかもしれない。


 寒い?私は顔を左右に振る。不思議なことに寒さは微塵も感じなかった。


 もうじき彼に会える。私の細い体を辛うじて支えているのはその期待一つだけ。ゆっくりと薄暗くなった空を私は虚ろな目で見上げる。風が強くても瞬きなどしない。視界の先に彼が映る。捨て去ったと思った表情に笑みが浮かんだのは彼からのプレゼントだろうか。彼も笑っている。その笑顔に誘われるように履いていたヒールを脱ぐと、一歩一歩彼の元に足を踏み出した


「今行くからね」


 一言そう呟いた時だった、


 ドドーーッ!


 防波堤に激しい波が打ち付け、壁のように聳え立った海水が私の視界を覆いつくした。

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