タンデム(F編)

 不意に赤信号が灯ったように見えて、俺は慌てて右脚先と右手のレバーに力を入れる。あくまでスムーズにと心掛けたものの、重心が前方へと傾くことで、改めて意識があまり前方に向いてなかったことを知った。その直後、コンという音と共に重い荷物でも背負ったように俺の背中が押される。


「大丈夫?」


「はい」


 俺はやや顔を斜めに向けたまま声を掛けた。ぶつかったのはヘルメットのバイザーで、背中を押したのは後ろに乗る人の重みだ。予想もしてなかった挙動に身体を任せる形になったせいで、俺の背中にピタリと身体が密着する。


 初夏という言葉が似合う季節だったため上半身はTシャツ一枚だ。柔らかな膨らみを肌に感じ、ドキドキする鼓動と体温の上昇を感じた。僅かな信号待ちの間に、後ろに乗る女性は姿勢を整えるようにスッと離れる。


 後ろには人は乗せない。


 それがライダーだと当然のように仲間内と語り合った。後ろに女の子を乗せて走ってみたい。実は強がる台詞の裏にある本音で、ずっと憧れていた。それがようやく現実になったのだ。


 しかし、さっきの急停車の密着で俺の脇汗はこの陽気でも乾くことがないほど滴り落ちている。まずいと何気ない素振りで汗をチェックする。けっこう濡れている。匂いは大丈夫だろうか。そんなことを思っていると信号が青に変わり俺はゆっくりとアクセルを開けた。


―――「今度、後ろに乗せてもらいたい子がいるんだけどさ」


 仲の良い友達からそう伝えられた時は正直戸惑った。後ろには乗せない。女の子を乗せてみたい。そんな心の葛藤だった。それでも友達からの頼みも断れずに首を縦に振った。


「よろしくお願いします」

「はい。こちらこそ」


 他人行儀でぎこちない言葉のやり取りのあとで女性は確かめるように足を後ろのバーに乗せ俺のシャツの両端を優しく掴む。ほんのりとした甘い香りが鼻をくすぐる。とても妙な感覚だった。


 目的地までは、いつもの調子で走れば一時間程度で着くはずだ。ただ、この日は後ろに女性を乗せてることもあって、超が付くほど遅いペース。大袈裟に言えば、年明けに行われる駅伝の先頭を走るあのバイクのようだ。


「疲れた?」

「いえ、大丈夫です」


 あるのはこんな会話だけ。女性から俺に話しかけることは無い。恐らく、疲れたと訊いた俺が疲れているのだろうなと思った。あれだけ憧れたことなのに、女性を乗せてからは一度も笑ってない。見知らぬ人が見たらきっとふて腐れたような顔に映るかもしれない。今日だけの我慢だと俺は自分に言い聞かせた。


 二車線の国道を延々と四十キロで流す。制限速度は五十キロ。これがまた俺には苦痛でたまらなかった。適度な緊張は相変わらずだったが、時間が長くなるにつれ女性を乗せてるという意識が薄らいでも行った。


 少しも面白くない。もうここで降ろして一人で家に向かいたいくらいだ。そう思いながらも俺は常に左前方を走るバイクに目を配る。時にはちょっと追い越したりして視界から一瞬消えたりはするものの、意識の中から消え去ることは無かった。


 赤信号に合せるように俺は優しくブレーキをかけて、その原付バイクの横に並ぶ。ノーヘルの男は俺に一瞬目を向けた後で、後ろの女性に向かって笑顔を零す。何か声でも掛けたのか後ろの女性も応えている。


「人の女に色目を使うな」とも、一瞬で後方に置き去ることも出来ない。


 なぜなら後ろに乗せてるのはこいつの彼女だからだ。自分の馬鹿さ加減に呆れながら俺は固く誓った。


 もう後ろに女性は乗せないと。

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