法案

 それにしてもすごい法案が可決されたものだと、俺はギアを替えるために左足にグイッと力を入れてクラッチを踏む。


 高齢者安全運転対策推進新免許法。


 一度聞いただけでは二度と言えないような長ったらしい法案だ。七十歳を超えたドライバーはAT車には乗れない。つまりはマニュアル車しか乗れなくなるという法案だが、ある意味これを成立させた今の総理の手腕は俺の知る限り、近年の総理の中では群を抜いているのではないか。もちろん無謀な案件と反対も多かった。それをねじ伏せての可決だから細い俺の目も見開いてしまうほどだ。


 マニュアル車が今時あるのか。そんな一般市民の疑問も政府で決めたとあれば、大手の自動車メーカーもすぐに動く。高齢者が好みそうな車にはすべてマニュアル車をラインナップした。


 半面、ばかげた法案だと反発する者もいて、免許返納者は去年の五倍に達した。その中には長年付き合いのある友達も何人かいた。


 俺も正直その一人に加わろうとしたが、都会と違って田舎の生活は買い物一つでも車がないと不便この上ない。よって法に従ってマニュアル車の運転講習にも通った。

 

 まさかこの歳で教習所に行くとは思わなかったが、音沙汰もなかった奴と思わぬ再会を果たしたり、新しい友達も数人できたので、まんざら悪いことばかりでもないと思ったものだ。


 ただ、何十年もオートマしか乗ってなかったため、勘を取り戻すには大層時間がかかった。教習車はすべて電気自動車。おまけにマニュアルだ。電気自動車にマニュアル操作を加えたことにも驚きだが、とにかく勝手が今までとは違う。


 新免許法での教習は三時間と優しそうな設定になっているが、規定でクリアする高齢者など皆無に等しい。


 意欲満々に来た八十過ぎの人などは、その重く設定されたクラッチが踏み込めずに帰ったなんて話を耳にした。


 悪いことにアクセルも同じ重さがある。強く踏んだところで電子制御されたアクセルではスピードも出せない。一般道でも高速でももはや決められた制限速度を超えて走るなんてことは夢物語になってしまった。


 かつてスピードを売りにしていた数百馬力のガソリン車などは今やオブジェだ。俺は結局八時間乗った。聞くところによればそれでも少ない方だという。


 ようやく取れたとホッとしても通常の運転では何度も昔で言うエンストを繰り返した。うまく繋げられないことを三度繰り返すとAIが危険と判断しモーターの電源を一時遮断する。それでも昔のようにクラクションを鳴らされたりすることはない。状況を後続車のセンサーが感知するからである。


 交通の流れは当然悪くなるが、それはあくまで以前と比較した場合で、もはやこれが普通と化してしまっている。とはいえ、ようやく帰宅した際にはこれで本当に良かったのかとTVに映る首相を見て呟いたりもした。


 そもそもこの驚きの法案が施行される以前に企業努力によって事故は格段に減っていた。踏み間違いによる急発進を防ぐ装置は新車には無論のこと、それが取り付けてない車は車検にも通らない。


 以前のガソリン車ディーゼル車は一般道の走行禁止という徹底ぶりだ。凄いと思ったのは自動ブレーキが猫や犬まで反応することだ。その甲斐あってか踏み間違いによる事故はほぼ消滅した。


 そういえば、孫に車を貸してくれと言われなくなった。ドアを開けてペダルが三つあるだけで驚きの声を上げる。大抵はAT免許なのだから無理はない。以前なら気軽に貸して、傷の一つや二つがお礼とばかりに返ってきたものだが、今となっては車を一瞥する程度で貸してのかの字もない。そのため、孫が家に来る機会も減ったような気もする。


 良いのか悪いのかこの辺は複雑だ。しかし、すべては決まったことだ。あとはうまく付き合っていくしかない。



 この日、俺は女房を乗せて久しぶりに山歩きに出かけた。何度も来ている場所なので車から降りるといつものように歩き出す。しばらくすると後ろから声がした。


「待って…お父さん」


 気が付くと女房がずいぶん離れてしまっている。


「あの車に乗るようになって、なんだか歩くのが早くなったんじゃない?」


 息を切らしながらの声に、ふと意外な恩恵があったのかと俺は両足を眺めながら女房を待った。

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