悪い癖
延ばしかけた手をスッと音もなく戻す。ただならぬ視線を感じたからだ。俺は何食わぬ顔で周囲に目を向ける。
ゆっくりだ。
時には車窓に流れる景色を見るように。そして、乗車しているいろんな客を見るようにだ。視力は人並みだ。ただ、俺には動物的な嗅覚と透視能力が備えられている。商売柄これは願っても無い能力と言える。万が一、それが数秒でも遅れたら命取りになるからだ。
居眠りをしている年寄りを見た後で、猫背で腰かける数人の学生を見る。皆俯いてスマホを弄っている。いつの時代からなのかは忘れたが、今ではすっかり見慣れた光景になった。他にすることがないように誰もが小さい端末に夢中になってる。一旦右に移した視線を徐々に左へと向ける。退屈そうにちょっと欠伸をしながら、気になる位置をさりげなくスルーする。
奴だ。
新聞に目を落としているサラリーマン風の男。たぶん三課の刑事だ。俺にはその鋭い目付きでわかる。如何にも新聞に集中してるようだが、瞳の三割はこっちの様子を伺っている。
見える。
奴のスーツの下にはワッパがある。職業柄だろう。恐らく、奴も感じているはずだ。
同じ車両に刑事が乗っているとしたら、仲間でも居れば誰かがそっと中止を知らせる。だが、俺は単独だ。悪いことに長年の経験、つまりは培った技術がある。
狙った獲物は逃さない。
そんなプライドも捨ててはいない。もちろん狙いは隣のボーっとしたご婦人だ。手提げカバンは不用心に開け放たれている。寝てはいないが隙だらけだ。ぽっちゃりした体型できっと呑気な性格なんだろう。次の駅にでも降りてどんなスイーツを食べようかと考えているのかもしれない。
やれる。
というよりはやる。そう思って再び視線を移動させる。一瞬、刑事らしき男と瞳が重なる。
間違いない。
俺は確信した。そっと近寄って耳元でデカの匂いがプンプンするぜと言ってやりたいくらいだ。気配から察するに新米じゃないだろう。仮に新米だったらとうの昔に俺はバッグから獲物を抜き取っている。本能にストップをかけるのはベテランの証だ。
やや左カーブになり電車が揺れる。新聞を持った男も同様に姿勢を崩す。その間にも俺への目が一瞬光る。
さすがだ。
俺は畳んで太腿の上に置いた新聞を手に取ってそれとなく広げる。怪しまれてはいけない。右手をゆっくりと上げて顎を摩る。これは俺の仕事をやる前のルーティーンだ。
うっすら伸びた髭を確認するようにさする。指先にザラザラとした感触が伝わる。これで指先の感覚を研ぎ澄ますってわけだ。電車が右カーブに差し掛かり車輛が左に揺れる。空いたつり革が同じように振られる。その時、刑事らしき男の近くに立っていた男が体勢を崩す。足腰が来てる老人のようによろけて刑事らしき男にぶつかった。
刑事も戸惑ったようだ。思わぬ衝撃に持っていた新聞は明後日の方に向き、五十代男と同様に姿勢を乱した。俺はそんな一瞬の隙を見逃さなかった。
新聞に隠された部分から素早く右手を伸ばし、瞬きするような速さで獲物を引きぬく。誰の目にも止まらないまさに神業だ。
してやったり。
そう思ってほくそ笑むと声を掛けられた。
「ちょっと!」
刑事ではなく隣の女性からだ。
まさか感づかれた。いやそんなはずはない。だが、声に出された台詞からも俺はこれでまたムショに逆戻りだと思った。
「新しいティッシュじゃなくて、開けたのがあるんだから、それ使ってくれない」
差し出されたティッシュを手に取り鼻をかむ。すると、それを横目に、
「今のお店続けるの?たたむの?」
「あ・・・そうだな・・・」
「ボーっとして、お父さんたらまたつまらないことでも考えてたんでしょ?」
長年連れ添った女房は俺の心を見透かしたように呟く。肝心なことからはつい逃げ出してしまう。
これが俺の悪い癖だ。
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