涙橋

 愛犬ジローが死んだ。


 私が小学生の高学年の時に家に来た犬で、何度も散歩に行ったり思い出はたくさんある。社会人になってなかなか会えなくなってしまったけれど、実家に帰った時は家族よりも先にジローに挨拶した。そんな連絡があったのは仕事の帰り道だった。よほど良い事があったとしても私を落ち込ませるには十分だった。


 でも、今日は仕事でミス続き。仲間からはそんなこともあるって言われたけど、笑ってる人も多かった。涙が零れないように上を向いて。なんて歌のように、とても上を向いて歩ける心境じゃなかったし、いくら口をギュッと引き締めても目元までは締められなかったのか、知らぬ間に涙が溢れていた。


「ジロー・・・」


 思わず口から名前を呟く。俯いて下を見ていたはずなのに、突然、私は前に突っ伏して転んでしまった。何かにつま先を引っ掛けたようだ。可愛らしくよろけたのならまだいいけれど、ほとんど大の字のようだったから赤面するどころじゃない。数人の笑い声が耳に入った。慌てて立ち上がろうとすると膝から激痛が脳に伝わる。


「痛っ・・・・」


 と、手で擦るとお気に入りのストッキングが破れていた。仕事でささくれた指先に赤い色が付いた。悪い事は重なるってこういうこと。


 街のネオンも目立ち始め、行き交うヘッドライトも多くなってきた。でも私の心は数十分前の黄昏の時間のまま。まるで自分だけが不幸のようにも思えた。その数時間後、私は実家の畳の上で俯いたまま涙を落としていた。


「おばあちゃんが亡くなった」と、急に携帯に連絡が入ったからだ。病に臥せっていたのは知ってたけれど、まさかとその一報は信じられなかった。なんでこうなんだろって信仰もしてない神様を呪った。


 そんな時だった。


 私は心の中で「あっ!」と呟いた。


 もしかして。


 もちろんそれはただのこじ付けだったのかもしれない。それは仕事帰りに招かれるように入った細い路地で見つけた橋だった。小さくて車も通れない橋。そこの真ん中に立った私は「何かいいことないかな~」って、ぼやいたのだ。


 平凡で在り来たりの毎日を過ごしてた私に嫌なことが起こり始めたのは確かそれからじゃなかったかなって。


 そういえば橋の名前は『涙橋』だった。きっと涙を流させる不幸な橋なんだ。だとしたらこの先、私は不幸続き?考えたくもなかったけれど、橋を想い出してからただの偶然と笑えなくなっていた。


 もう一度あの橋に行って・・・。


 無駄な抵抗。と言っても他にすることも思いつかなかった。


 涙の蛇口がいくらか締まりかけた数日後、私は仕事の帰りにあの橋に向かった。路地を曲がって雑居ビルの間を抜けて、自転車一台くらいが通れる道。それから・・・。


 と、曖昧な記憶を頼りに歩いたものの一向にあの橋には辿り着かない。仕事でミスってジローが死んで、頭も変になってたのかなって。そもそもこんなところに川なんかある?

 

 半ば諦めかけようとした時、私の目にあの橋が映った。


 薄暗い何色とも表現できない橋。見つけた喜びよりもやっとたどり着いたことの方が大きかった。あの時と同じように橋の真ん中に立った私は、手だけ合わせ一言呟いてからアパートに帰った。


「あのさ・・・」


 帰り支度をしている時に声を掛けられたのはその翌日だった。


「良かったらさ。これから飯って言うか───」


 叶わぬ夢と好意だけ仕舞い込んでいた人からの誘いに戸惑ったけれど、私はただ首を縦に振ることしか出来なかった。それから何度も食事に行くようになった。


 落ち込んでる姿に耐え切れず声を掛けてしまったと彼は言ったけど、何度か目のデートの時に付き合ってくれないかと打ち明けられた。


 ある時、私は彼に橋の話をした。


 興味を持ったのか彼もその橋に行きたいと、仕事を終えてから私たちは手を繋いで細い路地を曲がった。殺風景な景色ですら明るく見えた。しかし、彼の手を引くように歩く私を嘲笑っているかのようにお目当ての橋は現れない。右に左にどれくらい歩いたのだろう。


 突然、彼はこういった。


「実はさ。昔、この辺に住んでたことがあってよくうろうろ歩いたんだけど───」


「無い?」


「あ~。橋どころか川もないさ」


 彼からの話に目を丸くしていると、


「でも、もしかしたら本当にあったのかも。出来ればそこで打ち明けたかったな。結婚してくれってさ」


 その言葉に彼が急にぼやけ出した。橋の名がもたらすのは悲しいだけの涙じゃなかった。

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