ある年の瀬
パソコンを立ち上げていると階段の下から声が聞こえた。
「なぁ~に?お母さん」
そう言って顔を出すと、
「ちょっと。おばあちゃんが呼んでるんだけど」
母親の声にそそくさと降りながらも、薄々何の用であるのか見当がついていた。身体を包む肌寒い季節にそれを感じてた。六畳間の襖を開けベッドに横たわる祖母に、
「おばぁちゃん。なに?」
と尋ねると、騒がしいまでの時代物のテレビの音でかき消されてしまったらしく、数えで九十を迎えた祖母の身体はピクリとも動かない。とは言え、やや大きめの声で呼び直しただけで私は驚きもしなかった。今年に入ってから何度と無く繰り返して来たことに過ぎなかったからだ。
「あ~。・・・智美かい。忙しいところすまないね~。あの~・・ほら・・なんだ・・・あれをまた頼めるかね~」
「パソコンでしょ?」
「あ~・・・。それ・・それ」
二階まで頼みに来られた去年とは違い、心なし祖母の口調は弱々しくところどころ吐く息に言葉が紛れてしまっていた。
「いいけど・・・今年はおばあちゃん書けるの?」
「なぁ~に・・ちょっと起こしてもらえさえすりゃ・・大丈夫だよ」
思惑通りの用件だったことよりも、やっと話しているような祖母が私には気掛かりだった。
「わかった。図柄はまたわたしが選んでおくから。え~と、また去年と同じ枚数でいい?」
「・・・あ~いいよ。あ~だめだ・・・今年はほれ・・吉田んとこのみっちゃんちと・・・三郎さんとこが喪中だから」
何よりも年賀状を楽しみにしている祖母が、先に亡くなってしまう自分よりも遥かに若い人のことを、心配しなければならないと言うのは、すっかり大人になった孫の私の目にもおかしな話に映った。
「おばあちゃん何て?」
西日の射す明るい部屋を後にし、キッチンに立ち寄った私にそう言って母親が声を掛ける。
「ううん。ほら毎年恒例のパソコンの年賀状よ」
「ああ、あれね」
「でもお母さん今年は書けるの?」
「まぁ心配はないと思うんだけど、なにより智美が刷ってくれるのを楽しみにしてるんだからやってあげて?」
「ええ。でも考えたらお洒落なおばあちゃんよね。パソコンで作る年賀状ですもん」
母親と私は微笑ましく目を細めた。それから二階のデスクの前に立ち、つい先日購入したソフトを入れ呼び出した画面に目を凝らすものの、先程開封した時に覚えた妙な指先の感触が気になった私は、今一つ身が入らずに視線を奇麗に塗られた爪に移動させる。
「あ、割れてる・・・もぉせっかく奇麗に伸びて来たのに」
そんな一言もさることながら、
「わかった。じゃ~今から行くから」
タイミング良く鳴った携帯に慌ただしく家を後にすれば、いたずらに過ぎて行くのは時間ばかりで、師をも走らせる季節を私は目まぐるしく過ごした。
「智美~。おばあちゃんのやつもう終わってるの?」
「あ~あれまだなの。はじめればすぐ終わるから」
見かねて口にする母親にさらりと答えたが、去年とは逆になってしまった光景に、どことなく覚えた寂しさを紛らそうとした。テレビの中からも催促が目立ち出したある夜、行くはずだった予定を変更した私は、例によって祖母が好きそうな図柄を選んでいる。遠慮がちになんでも良いからと言うのは祖母の口癖であるも、目と皺を一緒にさせて眺める祖母の顔を思い浮かべると、つい自然と熱を帯び食い入るように没頭した。
お決まりの文章を打ち込みため息を一つつくと、やがて若干賑やかな音を響かせながら、色鮮やかな葉書が次々と重なり合って行く。私はそれを手に取りじっと眺めた。例年と変わらぬ良い仕上がり具合だった。だが、なぜか満足そうな目に涙が滲み、いつしかそれは頬を伝わり葉書の上の色彩に落ちた。来年もどうぞよろしくと書かれた文字が、なんだか無性に悲しく見えて仕方がなかったのである。
「おばあちゃん。ごめん。一枚ちょっと滲みが出来ちゃった」
いつになくそのことを素直に告げると、
「あ~。い~んだよ。あ~また・・・きれいに~」
なんでもないことのように祖母はうれしそうに眺め、手間も暇も洗い流すほどの笑顔に私も一緒に笑った。母親の付き添いの元、時間を掛けてすべての宛て名を無事に書き終えた祖母だったが、手元に届いた数々の年賀状に目を通すことはなかった。押し詰まった暮れ静かに旅立ってしまったのである。
年賀状の仕上がりなど足元にも及ばない良い寝顔だった。
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