捨てる奴にペットなど飼う資格はない。そんな考えを持ち続け、常々そう子供に言い聞かせていた俺は、濁った水面をじっと見つめていた。実は数カ月前、その持論を曲げてしまったからだ。


 通称ミドリガメ。言わずと知れた馴染みの亀で、ぶらり出掛けた夜祭りのこと。どこにでもある家族同様、子供にせがまれたのだが、初めは気乗りせず宥め聞かせていた。


 裸電球が照らし出す小さなプールに、ふと幼い頃の記憶を過らせる。どうせすぐに飽きてしまうだろうと思ったからだ。しかし、「お世話するから~」と賢明な頻りにねだり続ける子供に、結局仕方なく首を縦に振った俺は、わが子の掌にも満たない緑色を二匹連れ家路に向かう。


 もちろんそれがいつまで続くのか不安が無かったわけではない。だが、生き物の世話を教えるには良い機会だと、翌日ホームセンターで餌やゲージを購入し、間に合わせの容器から移してやると、亀は小さいゲージの中を悠々と泳ぎ回った。


 それでも飼い始めて三カ月した頃、一匹を埋めなければならなくなってしまった。初めて亀を飼う俺にとって、柔らかくなった甲羅以外は特に驚きもせず、ただ短い命の終わりを哀れむくらいでしかなかった。名前も付けず、子供も俺も「かめ」と呼んでいたのも、恐らくこんな日を予想していたからに違いない。子供が小さいスコップで穴を掘ってくれ、アイスの棒を立ててやった。


 しかしながら、残された亀の方は、寒い季節になっても餌をよく食べるせいか、スクスクと育ちゲージはすぐに手狭になった。その成長の早さに驚きつつも、俺は亀の世話をしているのは自分だけで、尚且つ移動の楽なプラスティックのゲージでは、最早限界であることに気づくのだった。


 大型のガラス製では置き場もないし、と言ってこのままでは・・・・。毎日のように思案に暮れ、ついにどこかへ放す決心をした。そこで浮かんだのが、運動公園の一角にあるこの池だったと言うわけである。


 出来るだけ屈み込み手の力を緩めると、亀は濁った水に吸い込まれるように消えて行った。これで伸び伸びと泳げる。と同時にゲージの心配や世話からも解放されたと、肩の荷を下ろすものの、手元を離れれば離れたで、今度は安否が気になって仕方ないのだからおかしなものである。


 池に掛かる小さい橋の上に立ち、人目を気にしつつ持ち寄った餌を撒く。こんな動作を日曜だけとは言いながら、俺はかれこれ三カ月も続けていた。意味もないようなことに我ながら呆れ出していた俺は、あと一回分になった餌を見て、そろそろやめようかと考え始めた。


 日曜の午後、適当な口実を家族に告げると、また橋の上で濁った水を眺めている。穏やかな陽気とあって、池の周りは家族連れや散歩を楽しむ人で賑わい、時折閑静な緑に声が溶けた。落とした餌が水面に散らばると、早速池の鯉などが顔を見せ始め、くすんだ色があわだだしく揺らいだ。これも見慣れた光景の一つであった。


 半分撒いたところでタバコに火を点け、味気無い煙りをぼんやり見つめている。そんな時だった。


「亀だ~!」突然聞こえた子供の声に俺は慌てて顔を上げた。


 ひょっとして・・・・。直ぐさま身を乗り出すように、白く反射する池に目を凝らす。


──居た。その泳ぐ姿格好からして確かに亀だと、瞬きも忘れそれを俺は追い続ける。どうやら橋の方に向かっているようだ。こっちへ来る。じっと橋の上で黒い陰を待った。


「かめ!」見覚えのある甲羅の柄が見えた途端、思わず俺は声を発し表情を緩めた。するとそれに気付いたように、今まで動かしていた手足を止め、首をニョキッと伸ばすようにしてこちらを見上げた。


 目が合った。というのは気のせいかもしれないが、俺の方を見ていたのは確かだと、再び「かめっ」と声をあげた。


 元気そうで良かった。そう心の中で呟いたとき、亀はスッと右手を挙げた。


 まさか!俺のことを…。つい身を乗りだし過ぎたのか、俺は無重力のように水面に向かって落ちていく。凄い衝撃で顔がゆがんだ。だが、冷たくはなかった。


「凄い音がしたわよ。も~寝相が良いんだから」


 虚ろな目で周囲を見回すと、呆れて笑う妻がこちらをじっと見ている。


 夢・・・・。


 濡れてもいないパジャマに俺はつい今しがた見た光景を思い出した。


「カメの夢を見てたんだ。池に逃がして…」

「逃がさないでずっと飼うって言ったのはあなたじゃない?」


 言われてみればそうだった。夢は願望の現れなんていうが、心の奥底ではそんなことも考えているのだろうか。


 寝ぼけたような眼差しで一階へ降りていくと、待ちわびたようにカメはゲージの中で手足をバタバタと動かし俺を見ている。


 俺は満面の笑みで餌を手にした。

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