捨てたもの・・・・

「持って来たか?」



 靄の中から音も無く現れた男が重々しい声を絞り出す。黒装束の中に浮かび上がる顔。得体の知れない様相を前に、私はしばし放心に近い状態で立ち尽くしてた。


「渡し賃だよ!」


 苛立ちを重ねた口調に我を取り戻したかに、慌てて懐を弄った私は一枚の紙を差し出し、行き場の無い視線を辺りに移した。

 グレー一色に包まれた世界は、夜か朝かも解らないほどで視界に映り込むものは何もない。それでも自分の身なりからなんとなくどこなのかは見当がついた。

 手にした男は一瞬口元を緩ませた後、


「また六文か・・・・おまけにコピーじゃねぇか」

 と、吐き捨てながら左右にそれを振った。

「いや、私はただ渡されたものを持って来ただけで・・・・」

「渡された?」

「まぁ・・・・それに最近じゃ───」

「燃えないものは入れられないってか?」


 呆れたように私の声を遮ると、

「だったら燃える金を入れたら良い。何も燃えない硬貨だけが金じゃねぇんだからな」

 と、男は細い眼差しで私の目をじっと見つめる。


「しかし・・・・それじゃ・・・・」

 死人のような凍りついた眼球にたじろぐと、直ぐさま男はこう続けた。

「そんな決め事があったんだっけな。それはともかく初めて来て知らないだろうが、六文で渡れたのは遥か昔の話だ」

「・・・・昔。だって渡し賃って言や昔から───」

「そう。確かに昔は六文だった。だが、それはあくまで昔の話だ。何も時代による物価ってものはあちらだけの話じゃない」

「あちら!?・・・・じゃ~ここにも?」

「そう、生憎それを伝えることが出来ないんで困ってるんだけどな」


 返す言葉に困り周囲を見回すと、男はそそくさと取り出した帳面を眺め始めた。

「あ~、あったあった。自殺とある。借金を苦にしての自殺か・・・・有りがちな話だな」


 その台詞を聞いた途端、非現実な世界から呼び戻されたように私の視線と口は重みを増した。

「なら、正式な渡し賃を言ったところで意味がねぇだろうが、俺も一人渡していくらの雇われの身でな。それに川の整備やら水質維持なんかにも金が出てる」

「・・・・・・」

「それでいて持って来るのはみんな決まって六文なんで、この世も今じゃ赤字続きだ」


 耳にした話に愕然となった。まさかここに来てまで金の心配をするとは・・・・。そんな生活から逃れんとここに来たのではないか。すっかり外れてしまった思惑に、私はただ肩を落とすしかなく、更なる落胆が白い衣を包み込んだ。


「六文じゃ・・・・渡れないとか?」


 弱々しい声が精一杯だった。それでも声は届いたらしい。

「いや、残金は借金と言う形で渡してやるから心配するな」

話し終わるなり男はスッと右手を差し出した。掴もうか掴むまいか、考える余地など残されてはいないはずなのに、なぜか腕はためらいで強ばった。一つしかない命ですら惜しみもなく捨てて来たと言うのにおかしな話だ。


 それでもこれ以外の道はないと私は従うように手を延ばす。男がその手をギュッと掴む。頼りない力で私も握り返した。男のごつい手は温かいのか冷たいのかも解らず、誘われるように一歩一歩と足を踏み出す川もまた同様だった。身体に受ける抵抗は差し詰め水の流れだろうか。とは言え、濡れる感触もなく一言で煙の中を歩いている感じだ。あるいは、延々と続く借金地獄に我を失っていたのかもしれない。


 こんなことなら安易にサラ金などに手を出すのではなかった。

 後悔の念に駆られる脳裏には、ここ数年に起こった出来事が描き出され、自ら選択した結果が涙と化して頬を伝わり落ちた。


「おいっ!しっかり握ってねぇと───」

 朧げな耳に男の声が響いた途端、堅く掴まれたはずの手の感覚が消え、見る見るうちに男が遠のいて行くのが見えた。


「何やってんだ!」


 荒げた声に向かって私は賢明にもがきながら手を延ばす。しかし、慌てふためいたところで流されることしか出来なかった。

 男の姿はすぐに靄に包まれ、やがては声も暗闇に消え去った。ぼんやりと視界が開けたのは、それからどれくらいしてからだろうか。


 記憶と光景が結び付くまで若干の時間を要したが、ベンチやブランコを眺める寝ぼけた眼には安堵感も同居していた。つい込み上げた笑いが何よりの象徴だろう。


 手から滑り落ちた金融のチラシを拾い上げた私は、「他にやることがまだあるだろ」と、自分に言い聞かせるように呟き、それを丸めてゴミ箱に放り投げる。

 軽いはずの紙屑が、なぜか命の重みのようにも見えた。

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