黄昏
西日の悪戯に眉を顰めながら、ボクは今日も街角近くの書店に足を運ぶ。
やや渋い引き戸をくぐり抜けると、いつものようにレジを陣取るおやじが、俯き加減のまま黙りを決め込んでいる。また本でも読んでいるのだろう。チラッとそれを横目に何食わぬ顔で通り過ぎて行くが、きっとどこの誰が来たかくらい既に承知しているのだろうと思った。宛ら舞い込んだ風のような存在も、常連ならではの証しに過ぎないからである。無論、まったく会話が無い訳でもない。しかし、普段はこんな調子で二人の間にあるのは無言と言う静かな間だけだった。
大型の複合店なら一角にも満たない店内は、昼間でも薄暗く、天井まで立ち並ぶ本の香りがひっそりと溢れている。ウナギの寂れた寝所と称され、年々客足が減って行っても、寧ろボクはこれこそ相応しい環境と、子供の頃から気心の知れた店に通い続けた。
僅かな足音を引き連れ、中央を仕切る棚の裏側に回り込むと、慣れた手つきでパラパラとページを捲る。おやじの目が一番届きにくいそこが、「立読禁止」の張り紙が剥がされる以前からの指定席だったが、薄ら寒いこの時期だけは身を縮めなければならず、時折恨めしそうに黄金色にも似た日だまりを見つめた。とは言え、そこへ行こうとはしなかった。日差し周辺が女性の裸などの本で埋め尽くされていたからである。そのためただ顔を顰め読みかけの古い小説に目を戻すしかなかった。
誰かが居る。ちょうど意識から寒さが消えかけた頃だ。ふと感じた人の気配に何げなく視線を移したボクは思わず目を見開いた。それもそのはず普段立つことも出来ない一角で、若い女性が本を貪り読んで居たからである。すらっとした髪の長い女性で、似たような歳にも見えた。遠巻きに映るそれらしい表紙に、
(すげ~。きっとスケベなんだな)
そう思ってニヤついた瞬間、
(そんなことを考える方が厭らしいのよ)
突然、ボクの頭に妙な声が響いた。
(!?・・・・今のは幻聴か)
本を傾けたまま唖然とすると、
(幻聴なんかじゃないわよ。どうやらあなたには聞こえるようね)
と、またもや響く聞き覚えのない女性の声。
(聞こえるって・・・?いったいあんたは誰なんだよ)
(私?・・・・私は今あなたがスケベだと言った者よ)
(え?・・・・じゃ~?)
と、信じがたい顔で窓際を見た。
(そ、そんな。ウソだろ?)
(どうして?───)
(ちょっと待ってくれ・・・・なんなら試しにページを捲ってみてくれないか?)
すると確かにその女性はページをパラリと捲って見せる。
(し、信じられないな。そうだ。きっと偶然だよ・・・・あ、だったら今度はお尻を掻いてみてくれよ?)
(失礼ね!あなたよくそんなこと女性に向かって言えるわね!)
(あ、ごめん。だったら・・・・)
(ちょっとあなたは、いったいここに何しに来てるの?私をからかってる暇があったら雪国の続きでも読んだらどう?)
(え?そんなことまで?)
(違うわ。ただあなたがブツブツ言ってたのが聞こえただけよ。島村に洋子っていえばだいたいね?)
(そうか・・・・意外と読書家なんだね)
(・・・・)
(あ、ごめん・・・・でもどうしてそんな本を?)
(そんな本?・・これだって立派な本よ───。もう気が散るからここまでにして!)
それ以降、声はぷつりと途絶え、綴られた文字を再び眺め始めたものの、肝心の意識まで呼び戻すことが出来ず、つい自然と窓際へ目を移してしまう。しかし、瞬いた瞳に人影は映らなかった。
「さっき居た人いつ帰っちゃったの?」
直ぐさま、身の入らない本を置きレジでそう尋ねると、おやじは腑に落ちない顔を浮かべたため、
「髪の長い女の人だよ」
と、更に続けた。
「女の人?」
「そう。ほらさっきそこの裏で・・・・卑猥な本って言うか・・・・」
するとおやじは微笑ましくこう言った。
「進君。勉強しすぎて疲れがたまってるんじゃないの?進君以外に店に客なんて誰も居ないよ」
「!?」
「そりゃ~、あの手の本が見たいって言う・・・・」
そこで言葉をきった親父は老眼鏡からずらした目を手元に向け、一冊の本を紙袋に入れて差し出した。
「お代はいいから。たまには違った文学でも読んで気分転換した方がいい。ハハハ・・・・」
呆れたように笑うおやじをよそに、紙袋を手に外へと出たボクは、しばらく歩いたところで袋に詰め込んだ本を取り出した。その瞬間、ボクは目を見開いた。表紙の挿絵がつい先ほど見た女性そのものだったのである。
(───これだって立派な本よ)
不意に彼女の声が脳裏に蘇える。
十年という歳月が過ぎ去った今なら素直に頷ける。その手のジャンルを生業として執筆しているからだ。だが、あの時もらった黄昏という題名の官能小説を超える話は未だに書けていない。
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