体育館の天井は高すぎる

@ginkotaso

体育館の天井は高すぎる

 体育館の天井って高すぎるなー。私は昔からそう思っていた。具体的に言うと、七年前の小学校の入学式の日から。こんなに高くする必要ってある?いや、何かしらの理由があるからこんなに高くなっているんだろうけれど。でも、でもでも、正直こんなに高くする必要はないと思う。だって、私たちはあんなに高くは跳べないから。跳べないんだけれど、そこに空よりも低い頂点があるというだけで、私は飛びたくなってしまう。その衝動は、とても危ないものだと思う。そして実際、とても危ないものだった。


「ちょっと、なにやってるの!」

「えっ?」

 声が聞こえたと同時に、私の体はぐっと後ろに引かれる。バスケットボールに向かって伸びていた私の手も、重力に引かれるように地上へと落ちていく。

 振り向くと、部長が息を切らして立っていた。

「いきなり、なんですか?」

「なにって、いま自分がなにしてたか分かってる?」

「ボールを取ろうとしてただけですけど」

「取れるわけないでしょ、天井に挟まってるボールなんて。あんた、私が気が付かなかったら落ちて大怪我してたよ?」

「別にしないです。落ちないので」

「……ならいいけど。でも、もうこんなことしないでよ。万が一バスケ部で事故なんか起きたら、怒られるのは部長の私なんだから」

「分かりました。もう少しで片付け終わるので、部長は先に帰ってください」

 気色ばむ私に呆れたのか、部長は手をひらひらと振りながら帰っていく。

 ギャラリーに一人残った私は、脱力感に襲われてため息をついてしまう。ため息はよくない。幸せが逃げてしまう気がするから。

 まさか、部長に見つかるとは。片付け当番が私だけになるよう調整して、誰もいないことを確認したはずだったのに。

 今日なら飛べるはずだった。間違いなく、今日の私なら天井に届いた。それどころか、天井を突き破って月まで行けたかもしれない。それくらい、今日の私は完璧だった。

 でも、もう今の私は完璧じゃない。邪魔が入ったから。次の「完璧な私」は、いつ来るんだろう。そして、もし天井に手が届いたとして、その先には何があるんだろう。広大で圧倒的な「何か」に導かれる私の心は、いったいどこに向かっているんだろう。

 分厚い静寂で包まれた体育館の中に、私の心が転がっていた。

 

 その晩、私は夢を見た。海の底から、空に向かって昇っていく夢。雲一つない空は水のように透き通っていて、私の体は驚くほど軽かった。このまま、どこまでも飛んでいけたらいいのに。しかし、私は空には届かない。伸ばした指の先が海の表面に届いたその瞬間、私の意識は現実へと引き戻される。

 午前二時。あんなに涼しい夢を見たのに、体は火照っている。汗でぐっしょりと濡れた寝間着の重さが、なぜだかとてもしっくりくる。

 どうしたらいいんだろう。どうしたら、私の指は体育館の天井に届くんだろう。別に空なんて飛びたくない。ただ、私はあの天井に触れたいだけ。どうせ届かないだろう?と私たちを見下しているあの天井に、私たちの世界はそんなに窮屈じゃないよと教えてあげたいだけ。でも、私の体はシャボン玉のようには浮かないし、翼も生えていない。じゃあ、どうすればいい?そう、信じるしかないのだ。私は飛べると信じれば、私は飛べるのだ。


「体育館の天井まで飛びたいです。どうすればいいですか?」

 信じるとは言っても、私は自分が体育館の天井まで飛べると本気で思っているわけではない。でも、信じるほかないことも分かっている。ので、とりあえず誰かに話を聞いてもらいたくて、検索して適当に目についたネット掲示板に悩みを書き込んでみる。

 すると、一人のユーザーが話に乗ってくる。

「体育館の天井って、あの無駄に高い天井のこと?学校の?」

「そうです。あそこまで飛びたいんです」

「難しいんじゃないかなー。だって君、人でしょ?自分の体でってことなら、難しいと思うよ」

「人って、人間ってことですか?人間です。あなたは違うんですか?」

「いや、人間だけど。なんか飛ぶって聞くと鳥とか天使とか、そういうイメージになっちゃって」

「人じゃなくなれば、飛べるんですか?」

「それは知らないけど。飛べるんじゃない?だって人じゃないんだから」

「どうすれば人じゃなくなれますか?」

「そこまではちょっと。でもまあ、頑張ればいけるんじゃない?」

「どんなふうに頑張ればいいですか?」

「君が君でなくなっちゃうくらい、頑張ればいいんじゃない?」

「私は私でいたいです」

「なんで?人じゃなくなりたいんでしょ?」

「人じゃなくなっても、私は私だから」

「ならまあ、君が君でいられる範囲で、限界まで頑張ればいいんじゃない?」

「だから、何をですか?」

「知らないよ。じゃあ、何を頑張れば飛べると思う?」

「信じることです」

「何を信じるの?」

「私です」

「君自身ってこと?」

「飛べる私を信じれば、飛べる気がします」

「ならそれでいいんじゃない?」

「ありがとうございます」

「いや、何もしてないけど。なんかごめんね、役に立たなくて」

「話を聞いていただけて、心が軽くなりました」

「よかった。飛べるといいね」

「私が私であるために、飛びます」

 そうして私は、自分を信じることにした。

 煩悶や逡巡など一切ない、澄み切った心で飛べるように。


 自分を信じることは、想像以上に難しかった。飛ぶ姿をイメージすると、セットで落ちていく自分の姿まで付いてきてしまう。やっぱり、私は飛べないのか。所詮、人間なんてそんなものなのか。

 しかし、ここで飛ばない自分の姿は想像できない。落ちてもいい。怪我してもいい。最悪、死んでもいい。でも、飛ばずに歩き続けるのだけは嫌だ。どうしても。私の人生は、あの天井に向けて飛んだ時、初めて始まる。そんな気がする。

 そう考えると、私はまだ生まれていないも同然なのだ。生まれる前から、何かを考える必要はない。今はただ、その時を待つだけでいい。


 翌日。私は一睡もできないまま学校に着いた。もうそわそわして、いてもたってもいられなくて、そんなときに限って体育の種目がバレーボールだったりして、気が付くと私はギャラリーにいた。下では同級生たちが整列していて、そのうちの一人が私に気が付いた。

 全員の視線が一斉に私に向けられる。目立ちたくてここにいるわけじゃないけどでもみんなにはそうとしか思えないだろうなあとか面倒くさい気持ちが心から溢れて、私は宣言してしまう。

「ここから飛びます!」

 ざわざわ……。驚きと嘲笑が入り混じった声と、単純な笑い声が聞こえる。ただ一人不安そうな顔をしている体育教師が、大声で私に問いかけてくる。

「そこから飛び降りるの?そんな高さじゃ死ねないよ」

「死にません!天井まで飛ぶだけです!」

「天井?え?なんで?」

「そこに天井があるからです」

「あ、お前バスケ部の宮田か。もしかしてボール?あれはもういいよ」

「ボールのためなんかじゃありません!」

 私は手すりに足を乗せる。そして、全員に聞こえるように、笑い声にかき消されないように、叫ぶ。

「私は、私のために飛ぶんです!」

 空を飛べるなんて思っていないし、空なんて飛びたくない。でも、体育館の天井ならと私は思う。思ってしまう。みんな無理だと思ってるだろう。でも、人の信じる気持ちは人が思うよりも遥かに強いし、私は私をめちゃくちゃ信じてるから、多分、大丈夫だと思う。

 



 








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