懸け橋の無い街

一ヶ村銀三郎

懸け橋の無い街

 呼んでもいないのにかすかに彼女の面影が私の脳裡を日に数回も通過して、何の変哲もない光景に出現するようになったのは、ここ最近になってからの事である。実に不確かであるが、その契機となったのは僅か5センチもの段差につまいて転倒した出来事だと思う。

 実は転倒した事については他者から聞き及ぶばかりで、その際の知覚や経験など一切の記憶は消し飛んでしまっているのだ。しかし引っくり返った地点には障害物も無ければ、石ころの一つも何もなかったと聞くが、これも全く覚えていない。原因は分からないが、無機質で冷たくて硬い灰色の地面に頭を打ち付けた事は確からしい。

 あまりに一瞬の事だったせいで正確に把握してはいないが、周辺には監視器もあって記録されていたそうだし、そんな機械に似てこそいるが一応は血の通っている肉製の目撃者も少なからずいた。とにかく彼らが記録、見聞したデータを私が初めて聞かされたのは、強烈な頭痛によって起き上がり、そこが白亜の病室であると気付いた後の事だった。

 個人的な印象だが怪我は軽症であると感じられたが、白衣のポケットから顔を出している青いバンダナが特徴的な医師は、私のごとき門外漢には小難しく感じられるような調子で、不慮の事故による軽微な損傷のせいで、私の記憶、感情、思考、性格に問題が生じ始めていると述べてきた。さらに付け加えて言うには、その処置には結構な金が掛かるらしかった。答えから言うと、今の私には先立つ物が一切なかったので、辞退を申し出た。

 みっともない自宅の中を一週間くらい懸命に捜索すれば一銭くらいは出て来てくれるだろうが、それくらいの代物でもって今回発生した不慮の事故の代償となる筈もなかった。だいたい借金してまで治療をするもの馬鹿らしい。治療費を返済する算段も機転も知恵もコネも何一つない以上、頭部の手術なんか断った方が経済的だった。

 その旨を伝えると思った通り、上着から出ている青バンダナをいじりながら医師はデメリットを色々と並べ立ててきた。やれ躁鬱に陥るとか、トラウマを思い出させるとか、情緒の不安定性に拍車が掛かるとか、文無しの私には至極煩わしい事でしかなかった。第一、躁鬱やトラウマは昔からあったし、精神の脆弱さについても事故以前から重々承知している。

 治療法も確立されていないのに良く言うものだ。そう考えて、頭を押さえながら病室に戻っている時だったか、私にとっては既に遠い存在となって久しい栗色の髪をした彼女が、赤いネッカチーフこそ靡かせていなかったものの、白い衣装にマスクを身に纏ってる姿で院内の通路上に出現した。その様子を見ると、私には気が付いていないようで、他の相手と会釈していた。

 私は思わずって、後から段々と薄気味悪さを感じ、その場から立ち去って行った。仮に彼女でなかったとしても、引き留められて入院手続きをされては色々と面倒だと考えて、さっさと病院を出ていった。転倒前の記憶は日中で止まっていた気がするが、病院を逃亡した時の外は暗く、月さえ出ていなかった。

 脱走経路の途上には長い大河に設けられて幾星霜が経過する巨大な吊り橋があった。その入口は厳めしい岩石で装飾されていて、アンカレイジも兼ねていた。しかし夜中なので大吊り橋の全体像は、取り付けられた朧気な照明によって明らかになった、石垣などの一部分しか望めなかった。

 逃亡先のの岸へ視点を置くと、砂利の混合物やコールタールの産物など非常に硬い鉱物の成れの果てが神経質な程に細かい建築物を形成して、それが路地となって広がっていた。そんな街へ着くために、後頭部の痛みに悶えながら、千鳥足にも似た不安定な足取りで石造の主塔が三本ある区間を駆け抜けて渡り、向こう岸の橋台を通過していった。そうして振り返らずに現在暫定的に身を寄せている薄墨色をした狭い住処に戻ったのが一昨日の出来事である。

 その時、不運にも役所の通知も一緒に付いて来た。内容は全く捻りがない。単に病院に戻れとの事である。私の金銭事情が壊滅的である事くらい把握している癖に、どうしてこうも無神経な代物をよこせるのか。しかも二日連続で郵送してくるとは。考えるだけで頭が痛くなる。通知文はさらに続いている。それに依れば従わない場合は勝手に迎えが家に来る親切な仕打ちを働いてくれるそうだ、それも自己負担らしい。

 この世の事とは思えないくらい有難くて涙が出てくるし、頭痛も増してくる。まず部屋の中にある物で金を工面できるかと考えてみたが、売れる物は大方とっくの昔に質屋でさばいてしまった事を思い出した。この黒い部屋には箪笥たんすと机が侘しく置いてある中に、黄ばんだ布団が無造作に広がっているだけで本棚すらなかった。裸電球が細いコードにぶら下がっている現状は素寒貧そのもので、我ながら居た堪れなくなってくる。やはり彼女との交友を止めたのは正しかったようだ。

 こんな調子では気分が優れてくる筈もない。散歩がてら役所に停止の申請を出しに行こうか。それに排ガスなどの様々な気体が溶けて混合した下界の空気の方が、この部屋に漂っている澱んだ空気よりかは健全な気がした。おそらくは頭部の痛みも収まるだろうが、問題は役所に関連する記憶にあった。その事で少しだけ気が引けた。

 何のことはない。軽微な疼痛と共に、私の脳裡を通過する問題の彼女が以前に官吏を志望していたから、おそらく今役所に勤めているかも知れないと思っただけである。しかし詰まらなくなった私と出会ったとしても大事には至らないに決まっている。それに若干低めの声を持っていた彼女が、現時点で役所に勤めているとは限らないし、そもそも彼女がこの街に残っているかだって疑わしい。

 そう自分に言い聞かせながら、私は渋々ながら手元にある小柄な鞄に、身分証や筆記具、印鑑、財布など、おおよそ手続きをする時に要るものを入れていった。嫌でもそうもなければ先立つ物がない私は死活問題に直面する。簡素な荷造りを終えて荷物を持ってみると、持ち物は想像よりも軽く感じられた。そんな掴み所のない風船のような荷物を持った私は、疼く頭蓋を不安に思いながら黒々として狭小な賃貸物件から出て行った。

 修理費が高額なために、建付けの悪いままにせざるを得なかったドアを無理やり開けて三階の廊下へ出て行く。外界は陽が高く、青い空が広がっていた。強烈な日光は視神経にダメージを与え、後頭部に鈍い痛みを発生させる。階段を降りていく。外は明るいにも関わらず鼠色をした市街地の様子が窺えるために、どこか薄暗い印象を受けた。例の古びて久しい大吊り橋のワイヤを支える石造の塔の外壁は蔦や蔓が絡まっていて、冷酷な時間経過が良く分かった。

 階段の欄干から景色を見る。地平線以下足元の地面に至るまでに存在する大小様々な構築物の一切は、私の住んでいる崩壊寸前で破格のアパートメントと同様、亜鉛メッキの砂利で成立していて、周囲の色彩に影響を及ぼしていたからだ。それは遠くに霞んで見える石造の大吊り橋にも言える事だった。

 打ちっ放しの鉛色に染まったコンクリートの様を機能美と称する事もできようが、この界隈では人為的染色も目立つ。その美に対する理解も年々減少しているのだろう。おそらく手の打ちようもない。住居が朽ち果てる原因の一つでもあろうが、こうした汚損などの修繕となると我々住民が持つ能力の範疇から大きく逸脱する問題となる。集合住宅の自警を進めるべく組織された組合も、今となっては結束当時の勢いを失っている。そんな悩みを思い出すと、頭痛も増大しそうになった。

 階段を降りきって、黒々とした部屋のある無機質で石室に酷似した集合住宅から立ち去っていく。市街地のある大吊り橋の方面へ歩いて行くと、その途中でルーフに横長の赤ランプを搭載した白一色の車とすれ違って行った。多分、病院から来た患者思いの使者か、あるいは金を搾取したい人々のどちらか、はたまたその複合体だろう。まさか役所で彼女が申請書か何かを作って、それで彼らを派遣させたのだろうか。

 あまりに突飛で馬鹿な想像だ、これは痛みが残る頭から振り払った。おそらく私がいた事に気が付かれたかもしれない。見つかると厄介だ。この場から消え失せてしまおう。そう思って私は履き慣れぬ革靴を地面へ目掛けて懸命に突き下ろしながら、新月の夜を連想させる漆黒のアスファルトが広がる舗装を歩み進んで行った。

この界隈は比較的人口も少ない。人影もほとんどなく、そこに微々たる空気中の気怠い温もりと鬱陶しい湿度が存在する事で、侘しい街外れの印象が良くも悪くも作り上げられていた。

 人が少ないのは良いが、歩道の端に段ボールが山積し、街路樹が窮屈そうに生え出している僅かばかりの土壌には、何が染みついたのか鮮やかに黄ばんだ紙、茶色い液体が乾いて付着した空き缶、そこを二、三匹の蟻が這い回って物色している。勝手に動く黒い汚れが目立つ空き瓶、果てには右足にしか合致しない土色をした運動靴が打ち捨てられている。全く何の因果で投棄されてしまったのか、未だ僅かに疼く私の頭脳では理解できなかった。

 これではこの界隈が気味悪がられて当然である。実際この一帯は地価が低かった。だから今まで私は生き長らえる事ができた訳だ。しかし生存し続けてさえいれば良いのか、死ななきゃそれで良いのか、どうにも死という現実からの逃避が誠に美徳と称せる代物なのか答えが出せない。こればかりは頭痛のせいにもできないだろう。こんな袋小路に詰まった私の悲惨な姿を彼女が見たら、きっと幻滅して、栗色の髪を靡かせながら私の元を去っていただろう。

 転倒して怪我した頭脳で思案し続けても、途方もなく虚しくなるばかりだった。そんな阿呆な事を考えるのは止めて、ひたすら役所への道を急ぐ。地面は濃厚な瀝青で造られた単調な絨毯から幾何学模様が濫用されている多種多様な岩石の装飾が敷き詰められた床面に変わってきた。その隙間を突いて窮屈そうに生えている雑草の意地汚さに辟易しながら、未だに人の気配が乏しい集合住宅街を進んで行く。街外れから脱出しても、この辺りはまだ郊外だ。砂糖にたかる蟻よろしく人類は甘い汁の多い市街地に群がるようだった。

 皮肉にも私の頭部の調子とは対照的に、道中には何の支障もなかった。かれこれ50年前に暗渠となっただろう遊歩道を横断する。この街も大昔は環濠集落であったから、要塞時代の名残も以前は多々残っていたそうだ。しかしその大半は数十年前に消滅したそうだ。それも街の宿命と思われる。文化や学問にトレンドなる奇怪な物が生じるように、都市計画にも流行り廃りがある。それだけの事だろう。あの手の物はどうにも軽佻浮薄で付いていけない。この性格では彼女も浮かばれないのは明白だった。

 気が付けば視点は足元に向いていた。暗渠はコンクリート製で遊歩道の端や中央付近に亀裂が生じていた。経年劣化の激しい道を進みながら、周囲の住宅街を見る。似たり寄ったりなデザインで、私が這い出てきた集合住宅のある界隈とは違って、奇抜ではなく整然と統一された街並みが痛みの残る頭でも分かった。石畳が広がる土地を進むに連れて、周辺の人口も増加していく。

 役所の方面に足を進めると、出発時には50センチ程に見えた大吊り橋の姿形しけいが段々と大きくなって50メーターを超す程に見えてきた。その足元から離れていた閑静な街並みは、徐々に商業の趣を増していった。個人の持ち物だった建物が公共性の高い施設へと変化してレストランとなり、不動産、魚屋、神社、交番、雑貨屋、パチンコ、眼科、パン屋、電柱、薬局、カラス、本屋、カフェ、床屋、工事現場、寺院、コンビニ、信号機、花屋、マンホール、家電量販店、八百屋、バス停、居酒屋、空きテナント、税理士法人、案内所、広場、質屋、雀荘、ゴミ捨て場、酒屋、消防分団、駐輪所、総菜屋、公衆電話、婦人服を扱う衣料品店となっていく。そこにはロングスカート、ブラウス、パンプス、サングラス。あと口紅、香水、チーク、栗色をした透明感のある艶やかな髪を靡かせて、以前贈った赤く素朴なネッカチーフを身に着けていれば、赤い頬をした普段の彼女の出で立ちが簡単に再現できる。

 ふと我に返ると私は不愛想で無関心な雑踏の中で、凄まじく血行が悪いプラスチックの人間が据えられているショーウィンドウを凝視している自分に気が付いた。それも車道を挟んだ向こう側の店を見ていたのだ。つまり透き通った白色をした等身大の見本に彼女を見出していたのかと、頭に疼痛を覚えながら私は勝手に理解した。

 それにしても不思議だ。私の顔面は、その窓ガラスに反射していないように思われた。それどころか全体像が映り込んでいない。私の長ったらしい睫毛まつげも、痘痕あばたの残る頬も、ひび割れした唇も、黄ばんだ白目も、僅かに生えた白髪も映っていない。目の前のガラスには、ただ誰とも分からぬ人々の往来だけが映っていた。

 数メートル先の商店に填め込まれたガラスの反射から私の姿を見出すのは難しそうだ。何せ車道と歩道を挟んだ先の窓を覗き込んでいたからだ。彼女の姿に似通っていたと錯覚したせいで、回りくどく横着した行動をしてしまった。これも頭痛のせいだろうか。よく見れば誰にも似ていない白いマネキンを横目に、大吊り橋の麓にある城下町の中枢たる役所へ進んで行った。

 歩きながら今後の計画を確認していく。入院時、自動的に申請されていた入院手配を取り下げさえすれば、当面の間は金銭の心配をせずに済む。まず一階で受付を済ませて、生活課の窓口で話を付ける。そこで書類を作る必要があるだろうが、そのために印鑑を持ってきた。仮に職員が彼女だったとしても覚悟はできている。

 市街の中心には、刹那的な喜怒哀楽や高尚下劣の別を問わず思惑が渦巻き、そんな得体の知れない物に取り込まれて幾星霜が経過する人々がひしめき合うせいで、今日も騒々しかった。こうした中心部ともなると利益重視で無責任な言説がビルの間隙を傍若無人に飛び交い、手垢に塗れて不確かな金銭や証券が不可視な宙に舞い散り、使い捨ての煽情的な風潮、風習、風俗が無残にも道端に散乱していた。

当然、そこには禍々しい妖光を放つネオンがあったし、銀行券と引き換えられた諸般の紙片を扱う店、少額硬貨で食事が摂れる飲食店などが軒を連ねていた。無論、役所も存在するし、その手前には小綺麗な広場もあった。その点で言えばこの街も平均的な所だと言えるだろう。仮に彼女が役所勤めなら、多種多様な業種から発生する税収で安泰な日々を送っているに違いない。そうならば羨ましい限りだ。

 強制入院を免れるために私は役所に行かねばならないが、その膝元にある広場に着くと、どう言う訳か大勢の人々が漂っていた。言うなれば快楽のために闘争状態を再現する祭りである。半額シールと値札が下がる大きなプラカードの中央に極めて没個性的な記号を描き、自然に還った調子でシニフィエが再生できない断末魔と思しき波長を、人々は唾液と口臭に混ぜる形で投げ出していた。ただでさえ頭が疼くのに悪臭なんぞ嗅ぎたくない。

 彼女に何度も注意された癖でもある、非生産的で詰まらない人間観察も止めにして、心無い万民が心無い万民へ喧嘩を売っている最中をさっさと貫いて、役所の正面玄関に向かう。勝手に開くガラス戸を突っ切ると「受付」の表示を掲げたカウンターが出現した。受付には若い案内人が立っていた。入院補助の届出を撤回したい旨を伝えると、仏頂面のまま、白いカウンターの隣にある黒い発券機を指さした。

 案内人へ社交辞令で礼を言って、特徴のない四角い機械の正面についている毒々しい赤ボタンを人差し指で押すと、その下部にある口から白く小さな整理券が一瞬で吐き出されてきた。紙には黒鉛だろうか「97番」と記されていた。受付から20メーター進んだ先にある窓口の上部を見ると、黒い画面が設けられていて、デジタル表示で「89」とあった。私の番はしばらく来ないだろう。

 窓口に面した待合所には、青いフェルトで包まれたロングシートのベンチが置いてあり、数人が利用している。ある者は週刊誌を広げ、ある者は新聞、時計を頻繁に見る者もいれば、目を閉じて夢に浸っている人物もいた。いずれも役所の順番待ちに慣れているようには見えなかった。

 僅かに起こる頭痛を鎮めるためにも青いベンチへ腰を据えてみると、無機質な機械の発音がフロア全体に鳴り響いた。呼ばれたであろう人物が歩いていた。私は鞄を開けて必要な書類を出した。補助取下げ申請書という聞き慣れない用紙だ。まだ記入していない所もあるので修正する事にした。勿論書類は、氏名と生年月日といった誰だって書ける部分を有していたが、問題は下に続いているチェックする項目の多い点にあったし、提出当日の日付である必要もあった。ここでも金銭面について隅々まで聞いてくる。

 慢性的な自転車操業によって疲弊した木製の車輪は、軸が摩擦熱によって焦げ始めて煙を出していた。手の施しようのない現状に焦燥感と頭痛を覚えたが、そんな物を抱いた所で財政の都合も頭の具合も一向に好転しない。実に無駄な行為だった。安いボールペンでレ点の脱落箇所を埋めながら、窓口の上空にある黒い標示を見ると「96番」が呼び出されていた。音も聞こえない程に集中していたろうか。そして私の行動は遅かったのだろうか、僅かな頭痛も相まって判断が付かなかった。

 百円もしないペンを仕舞って席を立ち上がった時、白いブラウスに赤いスカーフを身に着けた人影が窓口から去って行くのが見えた。私は思わず、その場に再び座り込み慌てて手で顔を覆った。今思えば頭痛による奇行だと思われるが、この時は本気で彼女に恐れを覚え、眠気に襲われている風を装ったのだ。指の間隔を広げて、その間隙から彼女と思しき人物を垣間見たが、その姿は似ても似つかぬ程の美人であった。牧歌的で純朴な可憐さと言うよりは、洗練された絶世の才媛と言う感じで、栗色の髪とスカーフを靡かせて役所から出て行った。

 無機質な機械の発音がフロア全体に鳴り響いた。私の番らしい。再び青いロングシートから立ち上がって、白いカウンターの一角にある「生活課」の窓口に少しずつ近づいてみると、確かに「97」と表示されていた。薄っぺらい番号札を窓口に居る職員に差し出すべく進んで行った。担当者は彼女だろうと身構えていたが、そんな事もなかった。さっそく取下げの申請書を見せながら本題に入った。すると黒髪の職員は渋い表情を浮かべて、実に簡素な事を言ってきた。

「入院手配についてですが、こちらでは対処できないんですよ。一度、川向こうの病院で申請書、その書類ですね、それを提出して頂いて、その後で別の書類が交付されますから、まず病院の窓口に提出する必要があるんですよ」

 その事は申請書のチェック記入欄の最下部、太枠の底面を為す線分の下に3ミリ程の大きさで確かに記されている事が認識できた。すっかり見落としていたのだから反論の余地もない。職員は紹介状と言って、もう一枚資料をくれた。何でもそれを窓口に出せば受け取ってくれるそうだ。全く頭が痛くて仕方がない。

 役所には彼女はいなかったし、取下げについても何の成果も得られないまま、ただ簡単な地図と紹介状を遣された私は、人のいなくなった正門広場を通過する。騒々しい連中が消滅した代わりに今まで使われていたプラカードは投棄物へと変容し、打ち捨てられていた。莫大な入院費を避けるには、もう直接病院に入って取り下げてもらうしかないと言われた以上、その職員の発言を鵜呑みにした方が良いだろう。後頭部に痛みが残るものの、私は一度逃げ出した川向こうの病院に行く事に決めた。

 知っての通り、この街には巨大な吊り橋が架かっている。勿論橋が架かっていない都市なんてものは、この世に存在する筈がない。しかし、この街の吊り橋は「大」の字を冠する機会が多い事からも分かる通り、ある種のランドマークと化している程に目立つ存在だ。ただ向こう岸に渡る移動手段としては、例えば物流なら10キロ先の高速道路や専用道路で渡れば速く着くし、旅客であったとしても役所から徒歩7分の駅から鉄道を使えば五分と経過しない距離だから、本当に用事のある者が敢えてその橋を歩いて行くのは不自然だった。

 役所と橋の間を短絡するルートの途上にある要衝とも呼べる市立の中央公園を通過すべく、自宅から来た道に背を向け、役所前広場を発つ。最低限度の荷物だけなので機動性は良い。ただ橋を渡って脱走した病院に行くという事もあってか、動揺して足並みに乱れが生じる。ゆっくりと着実に足を接地して歩いていくしかなく、もどかしい。後頭部に生じる断続的な鈍痛や未舗装の路面のせいで、おぼつかない足取りしかできなかった。

 だいたい植物は人間のために存在している訳じゃない。それ故、憩いという人類の便宜、利便を追求すべく造られた公園に植えた日には、地面から脱出した木々の幹と葉と枝と根が縦横無尽に公園の空間と地面を歪に変化させていく。森林浴と称して親しむのは勝手だが、間伐の手間が発生する。連中だって平気で病気するのに、放ったらかしにしていく。単純な話だ、市に金がないのだ。こればかりは居住地の財政難を嘆く他に成す術もなかろう。

 後頭部の痛みに耐えつつ、落葉樹と常緑樹が無秩序に入り乱れた区域を進んで行くと、黒く変色した看板が現れた。そこには白い字で「市立中央綜合大醫療センターへは、この先の大吊り橋を直進」と書かれていた。心の準備は間に合わなかったと思いながら、私は黒い板を複数用いた工作物を通り過ぎ、書かれてある通りに進んで行った。

 天を覆うほどに繁茂した深緑の公園を進んでいくと、青一つない曇り空が認められる場所に出て来た。天候こそ今までの公園と同様の雰囲気を醸し出しているが、それでも明度が違う。先々の色彩や輪郭の区別ができるし、何よりも地面に穴がなく、石も置かれていなかった。

 開けた視界の中央には、橋長1キロは下らない巨大な吊り橋が鎮座していた。それを吊り上げるワイヤを掛けるための三つの石造の塔は橋脚も兼ねていて、川面から起算してもメートル法で200程度の高さがあった。人車道のある鋼鉄製の主桁は幅が30程だったか、随分強固な造りをしていた。この橋を進んだ先に例の病院がある。

大河の堤防を登りつめて、横にバラックが立ち並んでいる大吊り橋のたもとに辿り着いた。竣工から半世紀は下らない煉瓦造のアンカレイジは堅牢で、蔦が蔓延り、土埃に汚れて、いかにも古めかしい雰囲気を醸し出していた。こんな所でグズグズしても仕方がないので、私は全長1キロの橋を渡り始めた。

 吊り橋の歩道を進みながら隣の車道に目をやると、自家用車や社用車、原付、自転車などが途切れ途切れに走り抜けていた。渋滞はなかったが、寂しい交通量だった。やはり急用のある人の来る所ではないのだろう。

 ワイヤを吊るす一つ目の塔に差しかかると、白一色で赤いランプをルーフに付けた車が私の横を素通りしていった。半強制的に病院の事を思い出してしまう。彼女の幻覚を見てしまっている事が気懸かりだったのだ。

無論転倒したのが原因だ。しかし脳裡に栗色の髪を靡かせながらも、日焼けを嫌う彼女がぎるようになったのは、損傷以前に個人的な執着があったからだろう。かつて共に過ごした、あの人に。そんな事を思い出すと、やはり馬鹿な話だと私は考えた。自ら別れを告げたも同然なのに未だに執着するとは……。

役に立たない思考を一掃して、今から行う申請に集中すべく、一度欄干から川の流れを見て頭を冷やそうと思った。しかし大河は数日前の大雨で増水し、普段の清らで透明な流れからは想像できない程に茶色く濁っていた。きっと上流で土砂をえぐったのだろう。川面には流木までもが存在した。

 第二の塔は構造上重要なので、ちょっとしたトンネルとなっていた。ナトリウムランプが放つ強烈な橙色の怪光に照らされながら通過していく。私のような気色の悪い不細工で不器用な人間は、彼女と釣り合わないと判断したから、私は彼女の元を去った。俯いて足元を見ると漆黒の影が生じている。友人としての資格すら存在しない邪悪な物を暗示していると思った。自分を分析すればする程、彼女とは距離を置いた方が良い人間である事が導かれるし、その方が却って彼女の為にもなる。

 薄暗いトンネルを抜けると再び欄干の区間が始まった。吹き晒しなので風当たりが強い。来た道を振り返ると、貪欲に発展をし続けていて、やけに神経質で細かい路地だらけの都市が見えた。大河の流れも、来た方向も、良い眺めではない。観念して第三の塔がある前方に視点を置いた。病院が見える。その様は生死を扱う白亜の神殿とも形容できようが、そこまで立派な施設でもない、生死に翻弄される要塞でもあったのだ。

 最後の塔とアンカレイジを通過し、一昨日に登った堤防を今度は下って行った。そうして純白なだけで殺風景な病院の正面口に到着した。ここまで来た以上、もう行くしかない。意を決した私は、全面ガラス張りの自動ドアの正面に立って、その戸を開けた。向こうに黒いカウンターが見える正面玄関に来客の姿はなく、白衣を着た職員らが往来しているのが分かる。

 そんな静寂な空間を突っ切って、眼前の窓口に手元の資料を渡せば良い。そう思って歩いて行くと、見覚えのある姿勢をした白衣の職員がカウンターにいた。どう言う訳か、その姿が気になった。そこでは一旦、頭痛が招いた誤った既視感だと仮定して、私はその人に何事もなく会釈した。すると相手は次のような事を言ってきた。

「あなた、どこかで見かけましたよね? なぜか見覚えがある気がするんです」

 透明感のあるメゾソプラノだった。一瞬、彼女だと確信した。しかし声の持ち主の顔面を確認すると彼女ではないような気がした。僅かな間隙から見える円らな瞳こそ彼女らしかったが、肝心の頬の赤さはマスクによって覆われていて判別が付かない。頼みの綱の栗色の髪も白い帽子を被っていたせいで良く分からない。きっと頭髪の落下を防ぐために被っているのだろう。

 華美な服飾を控えた白亜の衣類に身を包み込んだ看護師と思しき眼前の人物に震えながら資料を渡す。頭が若干だが疼いて、目が回りそうになった。職員は申請書を凝視している。後頭部の疼痛のせいか気分が優れない。私の来歴と現状を彼女が見ていると思うと、足が砕けて、身が粉々になり、粉塵も分子レベルに散ってしまいそうになる。むしろ、そうなった方がマシである。

「あ、やっぱり、あなたは役所で……」

 声のみで判断すると彼女であると思えた。それに私の存在を朧気ながら認知していたようである。しかしネッカチーフといった目印もないため断言できなかった。私は咳払いして本題に入った。具体的には、まず入院しない事、次に出迎えとして救急車を呼ばない事、その理由として収入が乏しい事、その他ここにいる時間が非常に無駄である事と、さっさと取下げれば仕事も少なくなる事を矢継ぎ早に言った。仮に早く受理したなら心付けを支払うとも付け加えたが、相手は睨むような眼で私を見てきた。勝手に離れた事を根に持っているのだろう。

「……そう、それでは向こうの席で一人寂しくお待ちください」

 立腹した調子で高い声を出して職員は私に命令してきた。従わない道理はない。私はロングシートのベンチに向かって、ゆったりと歩いて行った。座り込んでカウンターを見ると職員は奥に引っ込んでしまっていた。

 あまりに暇だったので、どうせ聞かれないとは思うが、彼女への言い訳を考えてみた。第一に世間体があった。心無い無責任な揶揄、しかもそれで生計を生み出す下劣な揶揄で彼女を害したくなかったし、無責任な言論で彼女を穢したくなかった。それに彼女の言動の一切を制限させたくなかったし、束縛したくなかった。自由奔放な姿のままが良かったのだ。しかしそんな事を言えば、彼女は私を気色悪く思う。気分を害する訳にも行かなかった。

 私を呼ぶ懐かしい声がしたような気がしたが、きっと気のせいだろう。転倒による頭部の疼痛、彼女の幻覚に続いて、幻聴までし始めるとは、いよいよ私の精神も崩壊し始めたかと思いながら、ベンチに腰を据えていると、ローヒールが固い床を移動する音がしてきた。その音は段々と私の方に近づいて来ていた。そうして私の隣に立った彼女は苛立った声を出してきた。

「ねえ、人をかすだけ急かしておいて、あなたは考え事?」

 頭痛続きのため怒鳴り声が身に染みる。目の前には職員が腕組みして立っていた。しかし一昨日の医師みたいにポケットから赤いネッカチーフを露出させておらず、白一色に染まった制服にも似た外見をしていた。しかしその立ち姿を見て、ようやく私は、この職員こそ彼女だと知った。

「何とか言ってみたら?」

 あまりに唐突な出来事であり、頭脳が本調子でない事もあって、気が動転し、混乱していて、なぜ病院事務になったのかという真っ当かつ素朴な疑問すら考えに浮かび上がらなくなっていた。その時は、ただ、やはり私は彼女とは釣り合わないとだけ考えていた。そして私は口を開いた。

「そうだ、詰まらない事を考えていたんだ。下らない事ばかり考えていただけなんだよ。これまでずっとそうだった。多分これからも、ずっとそんな事を続けていくんだろうね。まあ、進歩とは程遠い独り善がりを延々と繰り返してきたからね、そんな気がするんだよ……。私はね、そういう下らない人間なんだ。だから……」

 私は身勝手ながら彼女に再び別れを告げて、再びその場から立ち去った。申請取下げは諦める。いてしまったのだ。そうして予想は的中した。彼女は、私という汚らしく邪悪な存在を追い駆ける素振りを見せなかった。かくあるべきだったのだ。きっと彼女も、とっくの昔にネッカチーフを捨てただろう。私は早く病院から出て行った。二度と彼女に会う事もないだろう。

 もはや入院手配の取下げなどどうでも良かった。それに破産して連中を困らせた方が遥かに面白そうだ。そう自分に言い聞かせて意気揚々とした調子で橋を渡って行こうとしたが、同時に段々と後悔の念が生じ始めた。しかし手遅れである。欄干には霧が立ち込めていた。四、五分しか滞在していなかった筈だったが、太陽は地に沈み、辺りは既に暗くなってしまって、さっきまで居た病院は夕闇に溶け込んで見えなくなっていた。

 僅かに疼く頭を手で押さえながら、進行方向に当たる街の方を見ると、人工的に生成された一貫性に乏しい光の数々が認められる。膨大な熱エネルギーをも生成する発電所から引いて来た電気を、ありきたりなネオンなどの気体やダイオードに走らせて、どす黒い血合いなどの体組織に似た赤とか、途方もなく深い海底を連想させる濃い青とか、腐敗した繊維に取り付いた微生物を思わせる緑など、贅沢な色彩でもって光は輝いていた。おおよそ疲弊しきって頭痛が残る私には、全く保養にならない浮ついた無機質な瞬きでしかなかった。

 早くあの街に戻って、この下品で怠惰な肉塊を休めよう。剪定や矯正を施されなかったせいで、ひねくれてしまった植物や、狭苦しい植木鉢に甘んじて色の剥げたみすぼらしい花を咲かせる一年草の類やら、鳩とか言った鳥類に占拠された雑木、アスファルトの裂け目から好き勝手に葉を伸ばす雑草が繁茂し、ゴミと共に様々な観念と物質が散乱するだけのいびつな街だったが、それ以外に進路がなかった。もっとも理由は黒くて狭い私の住処が街に存在するからで、そんな事は立派な動機とは呼べなかった。鬱蒼とした市街が橋の向こうに待っている。

 断続的に続いた疼痛のせいで足元がふらつく。まるで橋が崩壊しているように不安定な歩き方だった。転倒したせいだろう。やっとの思いで橋を渡り切ると、照明によるライトアップも終わったようで、橋脚や桁、ケーブルを照らしていた光源が段々と消えていき、夜の闇に消え失せてしまった。いつかは彼女の面影も、この橋のように漆黒の中に溶けて、私の脳裡から完全に消滅していくのだろう。

 後頭部の痛みに耐えながら狭苦しい住処へ再び帰るべく、闇夜に消え失せた病院と橋の方面に背を向け、きびすを返した私は、無機質なコンクリートの間に生じた深く濃い闇の中に入り、そこで形成された雑踏へ紛れ込んで行くのだった。

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