あなただけ。

増田朋美

あなただけ。

雨が降っていた。今週は雨の日が多くて、割りと涼しい一週間になるという。どこかの地域では、避難指示が出た地域もあったようであるが、幸い静岡県では、どしゃ降りになることはなく、お湿り程度のものであった。

その日は、由紀子にとって、貴重な盆休みだった。一度も仕事を怠けたことのない由紀子は、優先的に盆休みがもらえた。雨の日ではあったけど、由紀子は製鉄所にポンコツの車を走らせる。天気なんて、関係ないから、仕事がない日はできるだけ水穂さんのそばにいたい。そんな思いで由紀子は製鉄所に向かうのであった。

「こんにちは。」

由紀子がインターフォンのない、製鉄所の玄関の引き戸を開けると、製鉄所から反応はなにもなかった。あら、どうしたのかしら、と、由紀子が思っていると、

「もう、いい加減にしてくれ!畳の張り替え代がたまんないよ!」

という、杉ちゃんのでかいこえが聞こえてきたので、由紀子は何があったかすぐわかった。すぐに靴を脱いで、製鉄所の建物内に飛び込む。

四畳半では、杉ちゃんが、水穂さんの背中をさすってやっていた。須藤有希が、恐ろしく汚れた畳を雑巾で拭いていた。水穂さんの方は、まだ咳き込んでいて苦しそうだった。

「有希さん、悪い、鎮血の薬貸してくれる?」

杉ちゃんが、有希にそう聞いたのと同時に、由紀子が四畳半に飛び込んできて、

「やめて!」

と、かな切り声で言ったため、杉ちゃんも有希も黙ってしまった。

「やめてって、何をやめるんだよ!」

杉ちゃんがすぐに言い返したのと同時に、有希が、またやる!と、いって水穂さんの口許をちり紙で拭いた。ちり紙は朱肉みたいに真っ赤になった。これを目撃した由紀子は、有希を振りほどいて、急いで水穂さんの背中を自分の腕で捕まえた。そして、水穂さん大丈夫?苦しい?等と声かけしてやりながら、背中を撫でてやった。それでも、水穂さんの咳き込むのは治まらない。

「大丈夫よ。頑張って。吐くものは吐いた方がいいのよ。頑張って!」

由紀子が、そういって、水穂さんの背中を叩いてやると、出すものの本体がぐわっと姿を現した。本体は鳥居色のような真っ赤な液体で、誰も、ちり紙をあてがえないほど真っ赤なものであった。これを出すとやっと咳き込むのは静かになった。

「ほら、鎮血の薬だな。これをのむんだな。」

杉ちゃんが水穂さんに吸い飲みを渡すと、由紀子がそれをむしりとって、無理矢理水穂さんの口の中へ突っ込んだ。これでやっと薬を飲んでくれたことになる。鎮血の薬を飲むと、やっと落ち着いてくれて、水穂さんは呼吸が穏やかになり、

静かに眠りだしてくれた。由紀子は、水穂さんを布団に寝かせて、かけ布団をかけてやった。

「やれやれ、ひがたつごとに、ひどくなるな。おんなじこと何回繰り返したら、気がすむんかいな。それに、こんなに畳も布団も汚してさ。もう、取り替え代がたまんないよ。」

杉ちゃんが大きなため息をついた。

「まあねえ、今は夏だし、こんなに雨ばっかり降っていたら、湿気が多くて、こうなりやすくなるって、影浦先生が言ってた事があったわ。」

「だっけどねえ、こんなに何回も咳き込んで吐いていたら、世話をする僕たちもたまんないよ。畳の張り替え代もバカにならないし、布団だって、いちいち買いにいくのも、面倒だし。あーあ、後は本人にもう少し気を付けてもらわないと!」

有希がそういうと、杉ちゃんもそれに付け加えた。

「そんなこと言わないでよ!水穂さんは、苦しんでいるのよ!」

由紀子は、思わずそういってしまったが、それは外部の人だから言える台詞でもあった。付きっきりで水穂さんの世話をしている杉ちゃんには、通じない台詞だった。

「そうは言うけどね、由紀子さん。世話している僕らの身にもなってくれよ。本人は薬で眠るだけだよ。布団を買うのだって、みんな僕らがやってるんだぜ。全く、こう何回も布団を変えられるんじゃ、布団屋だってさすがにおかしいと思うだろ。それで、もし布団屋に水穂さんの出生を知られたら、大変なことになるよ。もう布団は売らないってことにだってなりかねないよね。そしたら、責任とらされるのは、こっちなんだぜ。同和問題とは、そういうもんだ。」

確かに杉ちゃんの言う通りであった。もし、布団屋に、水穂さんの出身階級がばれてしまったら、布団がほしくてもてに入らないことになりかねない。

「布団屋ばかりではなく、病院も畳屋もみんな同じだ。人種差別をされてるひとに、自分達の大事な商品を買われたら、それこそ、嫌な思いをするだろう。」

なぜだか知らないけれど、他人の為に奉仕している職業の人ほど、水穂さんのことを放置する傾向があった。特に偉い人は、自分の名誉を傷つけるとかいって、水穂さんとは、関わらないだろう。患者を選ぶ権利があるとか、馬鹿馬鹿しいことを平気で口にする医者や看護師は意外と多いのである。

「まあ、偉いやつは、身分の低いやつのことは考えないよ。偉い人ほど、自分のことしか興味なくなるから。しかし、弱ったな。一応、影浦先生に薬をもらってるけどさ、それだって一時しのぎに過ぎないよ。これから、だんだんこうなる日々が、増えていくことになれば、僕らも参ってしまうぜ。そうならないように、なんとかできないかなあ?」

杉ちゃんが頭をかじった。

「そうね。医者に見せるしかないじゃない。素人が何かしたって改善はしないわよ。」

「でも、そんな医者、どこにいるんだ?影浦先生みたいな人は特別だぜ。」

有希が、そういうと杉ちゃんはすぐにいった。確かに影浦先生は、特別である。影浦先生のような人は、おそらく五人もいないはずだ。みんな水穂さんの身分を知れば、すぐ出ていけ、というのは明確だった。

「普通のひとだったら、病院にこないでくれとか、そういうことを言うはずだよ。いや、言って当たり前だよ。水穂さんを見てくれる人は、みんなわけありのやつばっかりじゃないか。だから、一般的になんとかやってる人を、連れてくるのは無理なんじゃないの?」

確かにそれはそうだ。日本の歴史が関わる事情だから、日本から逃げるしかないかもしれない。

「そうねえ。でも、私、やってみる。医者なんて阿羅漢ばかりだと杉ちゃんはいうけど、阿羅漢だって人間なわけだから、何か共感することだってあるはずだから。」

有希は何か決断したようにいった。由紀子も、こればかりは彼女に共感するところもあった。有希は容姿しか取り柄がないと言うほどの美人で、自分はそんなことはない平凡な女性であるが、なにか共感できるものがあったのである。

「有希さん、あんまり女を武器にするのはやめた方がいいぜ。それ、あんまりいいやり方じゃないよ。」

と、杉ちゃんはいうが、

「いいえ、もうこれしか方法もないわよ。正義が水穂さんを救えないなら、こうするしかないでしょう。いいわ、あたしが、何とかして、偉いひとに見てもらえるようにするから。水穂さんが、これからも安心して暮らしていけるように。」

と、有希が、言った。有希さんってすごいなと由紀子は思った。彼女は仕事もしていない、何の取り柄もないといわれているが、そういうところは、自分より優れているのではないかな、と思った。

「私、普段はテレビなんて嫌いだから見ないんだけど、こういうときに、情報が入るってことはいいものだわ。スマートフォンもあるし、今は何でもランキング形式で医者のことを調べられる。ちょっと調べてみたんだけど。」

と、いきなり有希は、スマートフォンを取り出した。急いで調べてみたというのに、やけに用意周到なのは、有希ならではなのかもしれないのだった。

「水穂さんのような、病気の場合、この医者にかかってみるのが、いいのではないかしら?」

見せられたスマートフォンには、本村内科医院と書かれていた。本村内科といえば、駅前にある、呼吸器内科を主とするクリニックである。こんな地方の開業医に頼んでも、いいのだろうかと由紀子は思ったが、

「大丈夫よ。私のやり方で、やるから大丈夫。」

有希が自信を持ってそう言うので、本当に大丈夫なのかどうか、由紀子も杉ちゃんも困ってしまったが、とりあえず、有希さんにまかせてみようと言うことで決着はついた。

「でも、今回は、有希さん一人では無理かもしれない。私も、手伝うわ。何か、できることがあったら、すぐ言って頂戴。」

由紀子が心配そうにそう言うと、

「ええ、まあ、あたしは、車の運転はできないから、由紀子さんにお願いしようかな。でも、あくまでも私の付添人ということにして。でないと、作戦は失敗してしまうからね。」

有希はなにか考えていることがあるらしい。

「作戦って、どんな作戦だ?」

と、杉ちゃんはいうが、有希は、私に任せて於けばいいのよ、と、だけしか言わなかった。まあ確かに有希さんの考えていることはわかるけどさ、と杉ちゃんは言ったが、由紀子は、心配で仕方なかったのであった。

「じゃあ、由紀子さん、善は急げよ。明日、私を本村クリニックまで送っていって。」

有希に言われて、由紀子ははいとだけ答えたのであった。果たして、有希の作戦は、成功するのだろうか?

翌日、由紀子は、言われた通りに有希の家に行った。有希の家の前に車をつけると、待ってたわと言って、有希が出てきた。大変色っぽく、赤いワンピースにハイヒールを身に着けている。

「じゃあ、由紀子さん、今から本村クリニックへ行って。私が、道路で倒れたから、あなたが、送ってきたという設定で。その後は、私がやるから。」

と、有希はそう言って、由紀子の車の助手席に座った。

「それでは、お願いするわ。」

そう言われて、由紀子は、本村クリニックへ向けて車を動かした。本村クリニックは、由紀子の覚えている限りでは、駅からすぐ近くにあったのであるが、駐車場が離れていて、数分間歩いていなければならなかった。その間にも、太陽はよくてっていて、由紀子も有希も歩いていて、フラフラしてしまった程であった。

「それでは、あたしが、患者として入るから、由紀子さんは、付添人と言うことにしてね。」

と、有希に言われて、由紀子はとりあえずはいとだけ言っておく。じゃあ、行くわよ、と言われて由紀子は、本村クリニックへ入った。

「あの、すみません。本村先生は、いらっしゃいますでしょうか?」

と、有希が受付に聞く。由紀子はその間に、待合室を見渡したが、患者らしき人は、一人か二人しかいない。それでは、本当に、この本村という医者はいい人なのだろうか?と、疑い深くなってしまうほどだった。

「あの、さっき道路を歩いていたら、急に気分が悪くなってしまったんです。それで、こちらの女性につれてきてもらいました。私、須藤有希というものですが、診察を受けさせてもらえないでしょうか?」

と、有希は、受付にそういうことを言った。

「少しお待ちいただくことになると思いますが、しばらくお待ち下さい。気分が悪くなるようでしたら、お申し付けくださいね。」

と、受付に言われて、

「じゃあ、待合室で横になってもいいかしら?」

と、有希が言うと、

「はい、どうぞ。」

というので、有希は待合室の椅子の上で横になった。由紀子はどうしたらいいかわからず、とりあえず有希の隣の席に座った。

「由紀子さんは、ここで待ってて。私が、診察してもらうときは、来なくていいからね。」

と。有希は、由紀子に聞こえないように小さい声で言った。

「わかったわ。ここで待っていればいいのね。」

由紀子はとりあえず彼女の話にそう答えたのであるが、心配で仕方なかったのであった。その間に、他の患者さんの診察はどんどん終了していくのである。由紀子は、待っていると長いと思わせるのに、今回だけは短いなと感じたのであった。

「須藤有希さんどうぞ。」

と、看護師に言われて、有希は立ち上がって、診察室に入った。それから、数分立ったが、有希は出てこなかった。一体、有希は何をしているのだろう?由紀子は不安になってきた。本当に、水穂さんを診察してくれるまで、こぎつけるのだろうか?たまりかねた由紀子は、ちょっと付添から用事ができたので入らせてもらえないかと、看護師にいうと、看護師はどうぞ、と言って、彼女を通してやった。

診察室では、有希が、本村という人と話していた。本村という人は、女性であった。有希よりも、ちょっと年上の、でもちょっとおごっているような雰囲気もある女性である。

「他に、なにかいうべき症状はありますか?例えば頭がいたいとか、体が火照っているとか。」

と、本村という人が、有希にいうと、

「ええ、ちょっと、歩いただけでも、この時期は危ないものですね。体のほてりとか、そういうものはないんですけど。まあ、気分が悪いだけですので。」

と、有希は答える。その顔は、たまが外れたという顔をしていた。おそらく有希は、また女を武器にして本村さんに接触するつもりだったのだろう。しかし、本村さんは女性だった。

「そうですか、多分軽い熱中症ですね。じゃあ、薬出して置きますから、また何かあったら来てください。」

と、本村さんは言った。由紀子は、本村さんの声の高さが、女性にしてはやたら低いということを感じ取った。この人、医者という職業ではあるけれど、なにか事情があるのではないか。そう思ったのである。一方、有希もそれを感じ取っているようである。

「あの、ちょっと聞きたいんですが、本村先生は、ちょっと単刀直入に言いますけど、もともとは、男性だったんでしょうか?声のキーの低いところから、そんな気がしたのよ。」

と、有希は急いで聞いた。

「ああ、言わなくていいのよ。こういうことは、病気でもなんでもないし、大したことじゃないわ。あたし、気になったことは何でも口に出しちゃうタイプなんです。それで、聞いてみただけよ。」

本村さんの顔がさっと曇る。それは言わないでと言っているような感じだった。それを掴んだ有希は、よしと決断したような顔をして、こう切り出した。

「本村先生。私、先生の出自のことは何も言いません。誰にも言いませんから。その代わりどうしても先生にお願いしたいことがありまして。」

「は、はい、何でしょう。」

本村さんがそうきくと、

「はい。先生に、ぜひ、見てもらいたい男性がいるんです。あたし、先生の出自のことは何も言いませんし、お金をよこせとかそういうことも言いません。ただ、その男性の診察だけちゃんとやってくれたらと思います。私、先生のことを他人に漏らすことは絶対しませんから、その代わり、私のお願い、聞いていただけませんか?」

と、有希はちょっと妖艶な雰囲気で言った。

「しかし、私のことを、誰かに言いふらすとか、そういうことはしなくてもいいですよ。私は、たしかに性別適合術とか受けたけど、それについて、劣等感を抱いたりとか、引け目を感じたことは一度もありません。それを、言いふらされても、何も怖がりません。そうしたことは、私が自ら望んでしたことですから、何も感じていないんです。」

砲撃は、あっけなく外れてしまった。本村さんのように、性別のことを言いふらされてもびくともしない人もいるのだろう。

「じゃあ、本村先生は、男性から女性になったということを何も恥ずかしいと思わないんですね。」

と、有希は変な顔をしてそう言うと、

「はい、私が、自らの意思でしたことですし、それに私は、ずっと男性であることを嫌だと思っていて、それで性別適合手術を受けて女性になったわけですから、何もそのことは、後悔していないんです。だから、それを言いふらされても平気なんです。」

と、本村さんは言った。由紀子は、そのやり取りを聞きながら、本当のことを言ったほうがいいのではないかと思った。

「あの、先生。有希さんの言うことは、嘘じゃありません。先生のような、そういう性別を超越した方であれば、きっと彼のこと治していただけるのではないでしょうか。その方は、今でこそピアニストとして名声を得ていますが、その前は、同和地区の出身者だったことから、衣食住すべてが貧しくて、不自由だったんです。今も、ある施設に間借りして暮らしているんですけど、重い病気で、寝たきりになってしまって。お願いですから、来ていただけませんか?」

と、由紀子は、思わず言ってしまった。有希の作戦は失敗だったのだ。それならば代わりに私が、本当のことを言ったほうがいい。それが水穂さんのためである。そう、思ってしまった。

「同和地区、ですか。つまり、こんなことを言うと失礼かもしれないけど、低い身分の人だったんですね。」

本村さんは、ちょっと考えるように言った。有希も、なにか考えている。おそらく、有希は本村さんの弱みを握り、それを言いふらさない代わりに、水穂さんを治療させようと言う魂胆だったんだろうが、それはすべて潰れてしまったのであった。それでは、由紀子が別の作戦を提供しなければだめだ。

「私は、先生が性別に対して偏見を持っていないのと同じで、同和地区の人に偏見は持ちません。それでおあいこということで、お願いします。彼のことを治療してやってください。あたしたちは、先生が彼のところに来たとか、そういうことをマスコミに公開するとかそんなことは一切しません。」

由紀子は、できる限りの言葉を一生懸命並べて、本村先生に言った。

「そうねえ、、、同和地区というとね、、、。」

本村先生は、なにか考えるような顔をする。

「先生も、そう考えるんですか。私は、少なくとも、彼がそういうところの出身者であるとしても、彼のことだけ見つめて生きていたいと思っています。それは、誰にも変えられない私の気持ちです!」

由紀子は本村先生に、そう言って頭を下げた。

「いくらそういうところの生まれであっても、私は彼を愛し続けます!」

由紀子がそう言うと、有希も、椅子から立ち上がって、

「お願いします!」

と言って頭を下げた。本村先生は、ちょっと考えさせてといった。こうなると。もうだめだなという意味が強くなる。由紀子も有希も、落胆の表情を見せた。

「誰か、有能な医者を紹介しましょうか?」

と本村先生が言うと、

「いえ、、、もう結構です。でも、あたしが彼を愛し続ける気持ちは絶対に変わりません。それだけは変わりませんから。それは、先生、よろしくおねがいします。」

由紀子は、涙を拭きながらそういうことを言った。有希は、由紀子さん、それが言えるなんて随分成長したわね、と、にこやかに彼女の顔を見た。




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