第6話 二人で歩む道
あれから。関口は明星オーケストラを休団した。ケルン国際ヴァイオリンコンクールの準備のためだった。
コンサートマスターの貝塚は「いいことだ。思う存分やってこい」と激励してくれた。
コンクールまであと半年。その間にやらなければならないことが山積みだ。
ケルン国際コンクールは、事前審査がない。最初に振り分けない理由は、その過酷なコンクールのスケジュールにある。
一次予選は、一時間という持ち時間内にリサイタル形式で楽曲を披露する。ケルンの場合、観客も審査員だ。審査員は奏者の姿が見られない形になっているが、観客のいる中でのソロリサイタルは、本番さながらであるという話だ。
持ち時間の中には、指定された課題曲を組み込むが、基本的に選曲は自由。自分らしさをいかに表現するかがカギになるだろう。
二次予選では、室内楽にチャレンジだ。一次予選から二次予選までの間は二週間。その間に、事務局が選んだメンバーとチームを組んで課題曲にチャレンジするという難関である。
関口は、室内楽の経験が少ない。この半年の間に、室内楽の経験が必要なのだ。
この二つの予選を勝ち進むことが出来れば、晴れてファイナル。ファイナルでは、ショルティが指揮するオーケストラとの競演になる。
ファイナリストは、ここで二曲の協奏曲を演奏しなければならない。この辺りは、チャイコフスキーコンクールに倣っているというところか。
新人のヴァイオリニストで名を上げるためには、このくらいやって退けなければならないのだ。だからこそ、このコンクールで上位に食い込んだヴァイオリニストたちは、その能力を認められて、世界で活躍の場を得られている。
これらを一ヶ月の間にこなす。半端な気持ちで挑戦する者などいないということ。つまり、エントリーの段階で参加者の数はかなり絞られるのだ。
——そんなコンクールに僕が出るんだ。
コンクールの要項を眺めていると、足元が覚束ない。緊張しているのか。いや、それ以上に、正直に言うと、わくわくしているのだ。
楽しみな気持ちを抑え込もうとしていると、車の窓がコンコンと鳴った。はっとして顔を上げると、そこには蒼がいた。
「お帰り」
窓を開けて声をかけると、彼はにっこりと笑みを見せた。蒼の笑みは関口にとったら安定剤みたいなものだ。明星オーケストラを休団し、無職になってしまったが、蒼のそばにいられることのほうが嬉しい。
「今日は桜さんのところに行くの?」
助手席に乗り込んできた蒼に問われて、関口は首を横に振った。
「今日は行かないよ。蒼とごはんを食べるんだから」
「
「そうは言いますけどね。僕だって労働しているんだけど? 桜さんの店でかなり弾いているでしょう? あれ。時給もなにもないんだから。相殺だよ」
「相殺って。蛍の演奏が、桜さんのレッスン料に釣り合っているのかどうか疑問です」
関口は蒼の横顔を見つめて苦笑した。
「ねえ、蒼ってうるさい奥さんだね」
「お、奥さんって、なんだよ。それ。あのねえ……っ」
関口のほうを振り返った彼の首の後ろに手を回して引き寄せる。それから、そのうるさい口を自分の口で塞いだ。
「……っ!」
「うるさいとキスするんだからね」
「——っ!」
蒼はこれでもかというくらい、顔を赤くした。そのしぐさが可愛らしいと思ってしまう。
「ヒモ生活だしね~。蒼が喜ぶようにご奉仕してあげましょう。今朝の続きがいいよね」
今朝までの出来事を思い返しているのだろうか。蒼は耳まで真っ赤にして、火でも吹き出しそうなくらいの恥ずかしがりようだ。
「そ、そういうものは結構です! 間に合ってます!!」
「蒼をからかうと面白いね」
「面白くないよ。おこずかい、減額」
「え! それは困るな」
「無職」
「差別反対」
「ごく潰しって言うんだから」
「ああ、すごく傷ついた。僕の心はボロボロだよ。ひどいね。蒼」
「嘘ばっかり! 全然、傷ついた顔していないし。もう! 本当にデリカシーがないくせに、よくあんな繊細な音出せるよね」
「あ、褒めてくれるんだ。嬉しいー」
関口は口元を緩めてから、車を走らせた。蒼は言い返す気にもならないのだろう。「面白くない」という表情で関口を睨んでいた。
——そんな仕草、全てが可愛い!
「ねえ。今日は桜さんの店じゃない違うところに行こうよ。あそこだと、色々と邪魔が多いし。あ! もちろん。蒼のおごりね」
「そうに決まっているでしょう? お金持っていないじゃない。今月のおこずかいは、けだもに使っちゃったみたいだしね。今日は安いところね!」
「えー。けだもは家族でしょ? 必要経費だから、おこずかいとは無関係っていうか……」
「勝手に拾って飼い始めたのは蛍でしょ」
「そんなこと言って。蒼だってけだもが可愛いんでしょ」
関口は言葉を切ってからルームミラー越しに蒼を見据えた。彼は図星だったのか、すっかり黙り込んだ。
「僕は蒼と、これからの時間を築いていきたいんだ。お互いに歩んできた道のりも大切だけど。僕は、これからの二人で歩む道を大切にしたいんだ。蒼はどう?」
関口の問いに、蒼は恥ずかしそうに視線を伏せてから、ゆっくりと関口を見た。
「おれでいいの?」
「いいから、こうしているんでしょ」
「音楽のこと。わからないよ」
「そんなところもひっくるめて、蒼の全てが好きだよ」
「蛍……」
手を伸ばし、蒼の膝の上に置かれている手を握りしめた。指を絡ませると、蒼もそれを握り返してくれる。些細なことなのだ。だけど確実に、関口の人生はあるべきところへ進んでいる気がした。
「ファミレスね」
照れ隠しなのだろう。ふと話題がそれた。
蒼は幸せに慣れていない。幸せな時間を味わったことが少ないかも知れない。なら、これからたくさん与えてやればいい。
「はいはい。蒼の我儘は聞いてあげましょう。僕は優しいからね」
「だ、か、ら! 一言多いの!」
蒼との時間は、関口にとって至福の時だ。蒼と一緒にいると、なんでもできる気がする。ケルンのコンクールだって、きっとうまくいく。そう思うのだ。隣の席にいる蒼を見ているだけで嬉しい。
「蒼」
「な、なんだよ。おれは怒っているんだから」
「ありがとう」
「は、はあ? な、なんだよ。急に。気持ち悪いな」
「なんでもないよ。さあ、一緒に行こう」
——そう。二人なら、きっと大丈夫。
急に黙り込んだ蒼から視線を前に向ける。ケルン国際ヴァイオリンコンクールまであと半年。関口は期待と、不安と、歓喜の入り混じった不可思議な気持ちを抱えながら車を走らせていた。
— 第七曲 了 —
続・地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。【で、BL版】 雪うさこ @yuki_usako
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