3-8
私たちはその後もう少し川で遊んでから、自転車で仁太くんの家に帰った。服は絞ったし、自転車の風で多少は乾いたけれど、やっぱりまだ濡れていた。台所の勝手口で仁太くんがタオルを持ってくるのを待っていると、その背後におばさんは現れた。
『仁太! 麦音ちゃんもコパンちゃんもびしょ濡れじゃない!』
『わっ! 何でいきなり俺を怒るんだよ』
おばさんはいの一番に仁太くんを叱りつけた。
『あの。私もはしゃぎ過ぎたのであまり叱らないであげてください』
お姉ちゃんは余所行きの声でおばさんに話しかける。
『ごめんなさいね、コパンちゃん。どうせ、この子が無理言って川に入らせたんでしょ? 二人とも可愛いお洋服来ているのに。お洗濯しないと。すぐにお風呂沸かすから入ってね』
『二人とも差がありすぎだって』
私は仁太くんに同意するようにうんうん頷く。私とお姉ちゃんは一緒にお風呂に入って、服を借りて着替えた。ドライヤーで髪を乾かしている内に仁太くんもお風呂から出てくる。
『はい、みんなー。スイカを切ったわよ』
おばさんが三角に切ったスイカの乗ったお皿を三つ食卓に並べた。
『いただきまーす』
髪を乾かさないまま、仁太くんはさっそくかぶりつく。私とお姉ちゃんも、シャクシャクと三角形の頂点から食べ進めた。甘くて水分たっぷりで、風呂上がりの身体にしみわたっていく。おばさんのトントンとまな板の音だけが響いていた。
『なぁ、さっきの約束忘れるなよ』
ふいに仁太くんが顔を上げて言った。スイカはもう半分以上無くなっている。斜め向かいに座っているお姉ちゃんはスイカをお皿の上に置いた。
『逆にあんた覚えていられるの?』
お姉ちゃんは人が悪そうな顔で仁太くんに問いかける。お姉ちゃんの予想は当たっていた。十年後の仁太くんは約束どころかお姉ちゃんのことも忘れていた。
『覚えてる! 親戚がすごいライダーアイドルだって、みんなに自慢するんだ!』
日に焼けて少し赤くなっている仁太くんの顔が、興奮したようにさらに赤くなった。
『なら、頑張らなくちゃね』
お姉ちゃんはまたスイカに手を伸ばした。
『お前、姉ちゃんを応援しろよ』
仁太くんの言葉に私はまた無言で頷いた。
次の日、お母さんが迎えに来た。仲良くなった記念にと言っておばさんとお母さんは私たち三人の写真を撮った。
『じゃな。また来いよ』
仁太くんはさっさとお店の中に入っていく。私は自転車屋さんの名前をよく見ておいた。その写真とワタベサイクルというお店の名前が十年後、私たちを再会させてくれる。押し入れから出てきた写真を見て、私はなぜだかすごく魅かれたんだ。
お姉ちゃんにはこの数日後、オーディションの合格通知が来た。でもネット投票で七番目というのが気に食わないみたいだった。すぐに順位を上げてやると意気込んでいた。
そのために始めたのがSNSだ。自撮りや食べたもの、可愛い小物を上げているみたいだったけど、私と一緒に写ったものを上げたら、少し反応が良かったみたい。それ以来、よくSNSで私も登場するようになった。お姉ちゃんを一生懸命応援している妹って設定だった。
実際に私は応援していた。お姉ちゃんはアイドル活動が忙しくなると私の事を麦ちゃと影で呼ばなくなった。ほっぺたも引っ張らなくなった。お姉ちゃんがアイドルらしくなればなるほど優しくなる気がした。
ライブにも必ず応援に行く。お母さんと一緒の時もあれば、お姉ちゃんと二人の時もある。お姉ちゃんと二人の時は秋葉原の街で手を引かれて歩いた。
長い時間、過去を旅した。でも、思い返すと一瞬のことのような気もする。
「お姉ちゃん。忘れていてごめんね」
お姉ちゃんは必死だった。仁太くんに立派なアイドルになると宣言したものの、レッスンについていくのも大変で、いつも家で復習していた。
二人で秋葉原を歩く時は、いつもアイドルらしからぬ険しい顔をしていた。
あの頃には気づかなかった。ただ好きか嫌いかなんて二つの感情では足らない。
中身は全然違うけれど、お姉ちゃんも私と同じ、ただの高校生の女の子だった。
「本当にライダーみたいなアイドルだったね」
人をかばって死ぬなんて本当に正義の味方みたい。
でも、ライダーみたいにならなくても、アイドルにならなくても、そばにいて欲しかった。麦ちゃでも何でもいいから。
瞳を閉じて私は胸の前で自分の手を握る。
「麦ちゃん」
「お姉ちゃん」
またお姉ちゃんが現れた。あの夏の日の白いワンピースを着ている。
「私、すごく寂しかった。だから、お姉ちゃんのことをいいように想像して、都合のいいお姉ちゃんを頭の中に作っていた。でも、お姉ちゃんにしたら、なに勝手な理想像を作っているんだって感じだったよね。ごめんね。お姉ちゃん、本当のお姉ちゃんの事、もう忘れないから」
お姉ちゃんは何も言わない。
「お姉ちゃん、ワタベサイクルに行って変わったよね。きっと私も、あそこに行けば変われるって思ったんだ。私、変われたかな?」
やっぱりお姉ちゃんからの反応はない。その代わり、お姉ちゃんの手を小さな私が握った。小さな私が言う。
「いつまで、こっちを見ているの? こっちは過去だよ」
ああ。だからお姉ちゃんがいて、過去の私がいる。
「私、ずっと過去の方を向いていたんだ。うまく行かない現実に、過去の優しいお姉ちゃんの幻影を見て誤魔化していた。お姉ちゃんに会えば、その幻影はもっと確実な物になると思っていた。でも、それじゃいけないんだね。お姉ちゃんだって戦っていたんだ」
「私も、もう戦えるよ」
「戦えるかな?」
「戦っていたよね。じゃないと、ここにはいないよ。嘘はついちゃダメだけどね」
小さな私に私は頷く。
「もう、行くね」
戻り方は知っている。私は二人に背を向けて、一歩前に踏み出した。
目を覚ますと、仁太くんとエモンくんが手を握ってくれていた。
◇ ◇ ◇
ここが病院だということを忘れて、思わず大声を出したのも仕方がないだろう。
「目が覚めたなら起こせよ!」
「ご、ごめんなさい。二人ともよく寝ているみたいだったから」
僕の目が覚めると、杉本麦音は既に目を覚ましていた。上半身を起こした状態で平然とおはようなんていうから、僕は思わず怒鳴りつけたのだ。
「麦音、よかった、よかった……」
僕はエモンをベッドの反対側にいるエモンを指さす。
「見ろよ。エモンなんて泣いているじゃんか」
「なっ、別に泣いてなんかないし」
袖で目元を拭っておいて、泣いてないはない。
「とにかく呼ぶぞ」
目が覚めたら呼ぶように言われているので、ナースコールを押す。すぐに看護師さんがやってきてくれて、熱や血圧に異常がないか検診をしてくれた。後で詳しく医者が見るから大人しくしていてねと言い置いて、戻っていく。
「ごめんね。嘘をついて。それに二人には心配かけちゃったね」
目を覚ました杉本麦音は、どことなく晴れ晴れとした顔をしていた。
「それで、十年前にタイムリープ出来たのかよ?」
僕は一番気になることを聞いた。杉本麦音は少し視線を落としてから、顔を上げて言う。
「思っていたのとは違ったけれど、出来たよ。お姉ちゃんに会えた。仁太くん、ありがとうね」
「は? 礼を言うなら、エモンにだろ」
「うん。エモンくんにもお礼言わないといけないね。だけどね。お姉ちゃんが変わったのは仁太くんのおかげだったんだ」
杉本麦音は寝ている間にさ迷っていた過去のことを話した。最初は数か月前にしか行けなかったこと。白い空間に行って何年も前に行けるようになったこと。思ってもみなかった過去に行ったこと。
「もしかしたら、封印しようとしている過去や封印してしまった過去にしか行けないのかもしれない」
頷きながら杉本麦音の話を黙って聞いていたエモンが口を開いた。
「それって薬を使えば、ランダムに過去に飛ばされるわけじゃなくて、嫌な記憶の過去にタイムリープしてしまうってこと?」
僕が行った中学最後の大会も出来れば忘れてしまいたい過去だ。
「そういうことだね。強く印象が残っている記憶って嬉しいものよりも、辛いものの方が多いと思う。辛い過去のことを確かめたいなら事件の解明とかに役立つかもしれないけれど……。どちらにしろ、倒れて目覚められなくなってしまうような代物だったんだ。実験は中止だよ」
「ごめんね。せっかくエモンくんが世の中のために」
しゅんと杉本麦音は肩を落した。
「なんで麦音が謝るんだよ。それに麦音には黙っていたけど、僕はただ中学の同級生を見返したくて、この薬を研究していたんだ。謝るべきなのは僕の方だよ。本当にごめん」
「そんな、エモンくん」
頭を下げるエモン。そこにガラガラと病室のドアが開かれた。連絡をしたので峰山さんが来たのかなと思ったけれど、振り返ると髪を振り乱した中年の女性がいた。
「麦音! よかった。目が覚めたのね」
「あ、お母さん。どうしてここに」
杉本麦音の母親は、すぐに駆け付けて杉本麦音の頭を抱いた。
「ごめんね。お母さんがもっとしっかりしていれば、よかったのよね」
「ううん。お母さんはしっかりしているよ。私がしっかりしていなかったの。ねえ、お母さん聞いて。私ね」
ああ、きっとコパンさんに会ったことを話すのだろうと思った。だけど、杉本麦音の口から出たのは意外な言葉。
「私、仁太くんの家から東京まで自転車をこいで、ここまで来たんだよ。びっくりした?」
それは、どこかで見たことのある人の悪そうな笑みだった。
了
夏の終わりのタイムリープ 白川ちさと @thisa-s
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