3-7


『あー、暇。こんなことなら、東京に残っているんだった。麦ちゃさえ、いなければなー。友達と遊んでいられたのに』


 麦ちゃ? 私はちらりと視線を投げて見るも、反応せずに絵本を読んでいる。聞き間違いかもしれない。お姉ちゃんは触っていたスマホを食卓に置いて這い寄ってくる。


『おい、麦ちゃ。聞こえてんだろ』


 え? 今のお姉ちゃんの声? 


 映像で見る声と全然違う。低くて脅しのきいた声。私は黙って首を振った。聞こえているか聞かれて否定するなんて、聞こえていると言っているようなものだ。


『無視するなんて、な・ま・い・き!』


『ひたい、ひたいよ、お姉ちゃん』


 お姉ちゃんは私の頬を上下左右に引っ張った。たぶん手加減なし。お姉ちゃんは手を離さずに顔を近づけて言う。


『目が大きくて可愛いわね、麦ちゃ。私なんかコパンなんて昔のアニメキャラの恥ずかしい名前だし。それなのに麦ちゃは麦音なんて綺麗な名前に大きな目。ずるいわー、世の中不公平だわー』


『お、お姉ひゃん、かわひひってよく言われるひゃない』


『そういう話をしているんじゃないの』


 じゃあ、どういう話をしているのだろうか。


『十歳も離れていると妹っていうより、おもちゃって感じよね』


『ひたい、ひたいよー』


 涙がじわじわ浮かんでくる。この過去って本物? お姉ちゃんって、私の事……。


 その時、ガタンと音が鳴る。


『『『あ』』』


 三人の視線が交わった。居間と繋がっている台所に仁太くんが立っている。


『妹、いじめてんの? だっせー』


『なによ』


 お姉ちゃんの手がやっと離れた。私は小さな手でヒリヒリするほっぺたをさする。


『あんた、遊びに行ったんじゃなかったの?』


 余所行きの声色じゃなく地声で仁太くんに話しかけるお姉ちゃん。


『アイス食べるの忘れていた』


 仁太くんはガサガサと冷凍庫の中を探っている。


『なに? アイスがあるの?』


『うん。母ちゃんが客来るからって買っていたんだ』


 お姉ちゃんも台所の方へと近づいて、冷凍庫を覗き込む。


『勝手に食べて言いわけ?』


『いいの、いいの』


 ついに仁太くんはアイスの箱を探し当て、べりべりと中を開いた。水色のアイスキャンディーのようで、アイスを一本咥える。ん、と仁太くんは私たち二人にもアイスの箱を差し出してきた。


『共犯って訳ね。しょうがないわねー』


 そう言いながら愉快そうにお姉ちゃんはアイスを受け取る。


『お前は? 食べないなら戻すけど?』


 食べていいか迷っているように、私の視線が仁太くんと差し出されたアイスを見比べる。


『た、食べる!』


 私は受け取った。小さな私も共犯になってしまった。お姉ちゃんはアイスの薄いフィルムを破りながら仁太くんに聞く。


『ねえ、この辺何かある? 暇で暇でしょうがないんだけど』


『あるよ。行く?』


 私とお姉ちゃんは顔を見合わせるけれど、


『行ってみるか』


 お姉ちゃんが一方的に決めてしまった。





『あー、失敗した! やっぱり家にいるんだった!』


 お姉ちゃんはおばさんの自転車を無断で借りて走らせていた。前を行く仁太くんを追いかけている。暑さで右手に持つアイスが溶けてきていた。


 私はというと自転車の後ろにあるチャイルドシートに座ってアイスをかじっている。お姉ちゃんアイドルなのに日焼け大丈夫なのかなと思うのは、私が同じ年頃になっているから思うのだろう。


 私は揺られながら考える。仁太くんのお店に来たのは覚えていた。だけど、おばさんに紹介されたことを何となく覚えている程度。うちにも写真があったからそれで少しは覚えていたのかもしれない。外に勝手に出て行ったことなんて、記憶に全然ないけれど。


 この記憶はどこから来ているのだろう。本当にタイムリープして来てしまったのだろうか。私が勝手に作り出している妄想なのか。でも、白い空間で出会った私の言葉をきっかけに引き出されて思い出している記憶という可能性が高そうだと、お姉ちゃんの既視感のある背中を見ながら思う。


 仁太くんは電車の踏切を渡って、坂を下って、緑の生い茂る芝生の公園にやってきた。


『仁太、おせーぞ!』


 ボールを持った男の子たち二人が手を振っている。


『何かあるって公園!? そりゃ、何かあるけどさぁ』


 お姉ちゃんは汗を拭いながら文句を言う。公園にはブランコや滑り台があるけれど、高校生のお姉ちゃんには退屈だ。


『こっちこっち』


 木陰に自転車を転がして、公園の奥の方に仁太くんは進んでいく。お姉ちゃんに降ろされながら、公園にいる子たちの視線が集まっているのを感じる。


『仁太ぁ。この人たち、だれ?』


『親戚だって。遊びに来ているんだ。今日はこっちで遊ぼうぜ』


『仕方ねぇな』


 子供たちはボールを置いて駆けていく。駆けて行った先は公園を取り囲む柵が途切れている。私とお姉ちゃんも歩いていくと、その理由が分かった。柵の途切れた場所は階段になっていたのだ。


『ああ、川に降りられるようになっているのね』


 階段を下りた先は河原になっていて、丸い石がゴロゴロと転がっている。対岸の木が大きく張り出し、河原全体に影を作っていた。


 お姉ちゃんは腕を広げて息を吸う。


『んー、涼しい。合格!』


 私も真似して両手を広げていた。うん。涼しい風が気持ちよく吹いて、空気も新鮮な気がする。


『何が合格だよ!』


 バシャンという音が鳴って、私の前にいたお姉ちゃんの顔はびしょ濡れになっていた。


『しっしっし』


 してやったりと川に足をつけている仁太くんが歯を見せて笑っている。


『やったわね!』


 お姉ちゃんはバシャバシャと川の中に入っていった。そしてより大きな水しぶきを上げて、仁太くんの全身に水をかけた。


『うわーッ、信じらんねぇ!』


『仁太、加勢するぞ!』


『俺も、俺も!』


『ちょっと、協力プレイは卑怯よ!』


 少年たちとお姉ちゃんとの水の掛け合いが始まってしまった。キャーキャー言いながら水しぶきをきらめかせている。私はと言うと、どうしていいか分からないのだろう。オロオロと間に立って立ち尽くしていた。


『お前も来いよ!』


 男の子の一人が私にも水を飛ばしてくる。黄色いTシャツがびっしょり濡れてしまった。


『あ、あー』


 お姉ちゃんの手が止まった。


『ふえ……』


 私の目にジワリと涙がにじむ。嘘。私、こんなことぐらいで泣いちゃうの?


『泣くなよ!』


 大きな声に震えが止まった。仁太くんがこっちを見ている。


『そんなんだから、姉ちゃんにいじめられるんだ』


『別に私はいじめてないってば』


 いじけたようにお姉ちゃんは水面を蹴り上げた。


『いいや。僕は見た! あいつは悪者だ!』


『『悪者?』』


 さすがに私もお姉ちゃんも面食らう。


『あのねぇ』


 バシャバシャと水を蹴りながら進んで、仁太くんの所に歩いていくお姉ちゃん。ビシッと仁太くんの顔を指さした。


『一人っ子の君は分からないだろうけど、あれぐらい姉妹なら普通なの。ねっ、麦ちゃん』


 振り返って、ねって言われても。幼い私はどれが普通か分からずに黙っている。


『ほら見ろ。やっぱり悪者だ。悪者はライダーに倒される運命なのだ』


 仁太くんが右手を上げたライダーのポーズをとる。


『わ、悪者じゃないよ!』


 ライダーの悪者の最後を思い浮かべたのか、私は思わずそう言った。


『お姉ちゃんはアイドルになるの。だから、悪者のわけないよ!』


 確か、この頃にはもうお姉ちゃんはオーディションの最終選考も終わっていたんだっけ。


『まっ、そういうこと』


 勝ち誇ったようにお姉ちゃんは腰に手を当てた。


『アイドル? アイドルって?』


 仁太くんはライダーのことはよく知っていても、アイドルについてはよく知らないようだった。


『あれだよ、仁ちゃん。テレビでよく歌ったり踊ったりしているじゃん』


 男の子の一人が仁太くんに簡単に教えた。


『ああ、あれか。えーと』


 仁太くんはじっとお姉ちゃんを見つめる。そしてフッと鼻で笑った。


『全然違うじゃん』


 確かにアイドルは川に入って頭からびしょ濡れになったりしないだろうなと私は思う。


『なにをーっ!』


 肩を怒らせるお姉ちゃん。また水がバシャバシャと掛けられた。


『アイドルってどっちかって言うとライダー側だろ!』


『お前は怪獣側だ!』


 男の子たちはそうは言っているけど本気じゃなさそう。そう今の私は思うけれど、過去の私は違った。


『違うもん! お姉ちゃんはライダー側だもん! うきゃ!』


 目の前に水柱が上がる。しかも地味に痛い。私は水面に顔から転んだのだ。仁太くんはお姉ちゃんに向けて、いーっと歯を剥く。


『いじめていた妹にかばわれて、だっせーの!』


『たく、何やってんのよ。麦ちゃ』


 水の中に倒れ込んでいた私は、お姉ちゃんの手で助け起こされた。


『だって』


 お姉ちゃんのこと大嫌いのはずなのに、お姉ちゃんが責められると嫌。過去の私はなんだかちぐはぐしている。


『分かったわよ。それなら正義のアイドルになってやるわよ』


 お姉ちゃんは濡れた髪をかき上げた。


『いい! 私は今最終選考中だけど、きっとアイドルになる! なっちゃうのよ! アイドルになったら、あんたらちびっこにだって好かれるアイドルになる! 日本全国、ううん、世界で知らない人がいないってくらいのアイドルになるんだから!』


『えー!? 世界で!?』


『絶対、無理無理!』


 男の子たちは口々に言うけど、仁太くんは仁王立ちで言い放った。


『そこまで言うなら、なれよ! ライダーアイドルに!』


『ライダーアイドルって……。まあ、言われなくてもなるって言っているでしょ。本当は乗り気じゃなかったけど、決めた!』


 そう言えば始めはお姉ちゃんがなりたいっていうより、お母さんがアイドルにさせたいと思っていた。でも、この時からお姉ちゃんは変わったんだ。


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