3-6
◇ ◇ ◇
杉本麦音が目覚めずに、五時間が経つ。
僕らはまだ病院にいた。杉本麦音の親に黙っている訳にもいかない。僕は母さんに電話をして、杉本麦音が倒れて病院にいることを告げた。とても驚いていたけれど、責められずに杉本麦音の父親に連絡を取ってくれることになった。とにかく傍にいて、声をかけ続けなさいとも言われた。
電話をして病室に戻ってくるとエモンと峰山さんが話している。
「一度家に戻られては」
「いや、ここにいる。麦音の目が覚めた時、時間が混同する可能性もあるから。ここがちゃんと
病室のドアを閉めるとエモンと峰山さんは僕に気づいたようで振り返った。
「峰山が食事を用意してくれたから後で食べよう」
「では、何かありましたらすぐに呼んでください」
峰山さんが僕と入れ違いに出ていく。
僕とエモンは定位置の椅子に黙って座った。
~♪ ~~♪
聞いたことのある音楽が鳴る。チェストの上に置いてある麦音の鞄の中からだ。
「電話だよね。出た方がいいんじゃない」
エモンの言う通りずっと音楽はなっている。
「この場合は仕方ないよな」
僕は杉本麦音のバッグを開けて、スマホを取り出した。液晶画面の表示にはお母さんと書かれている。僕はのどをさすってから、通話のボタンを押した。
「もしもし」
「麦音? 一体、どこに行っているの?」
ちょっと低めの苛立っているような声。僕が何か言う前に杉本麦音の母親は少し早口で会話をすすめる。
「ちょっと旅行してくるなんて書置きだけして、もうすぐ夏休みも終わるのよ。いくらお母さんが放任主義だからって」
「いまさらそんなこと言っているのかよ!」
僕は思わず電話口に向かって怒鳴ってしまった。杉本麦音がうちの店に来てから四日は立っているじゃないか。それなのに放任主義だから? 行先も知らないなんて。
「え? 麦音じゃない? ど、どなた?」
僕はふーっと息を吐いて、沸騰した頭を冷ます。
あなたの娘は親戚のうちに来て東京に向かったこと、姉に会いたくてタイムリープしていま眠り続けていることを告げた。それらを話すと杉本麦音の母親は涙を流しながら、すぐに病院に行くと言って電話を切った。
「お母さん、ここに来るって」
「それまでに目を覚ますといいな」
杉本麦音は過去をさ迷う中、分かっているのだろうか。こうして待っている人間が何人もいることを。
◇ ◇ ◇
頬を流れる涙が熱い。
「どうして泣いているの?」
不思議そうに小さな私があどけない声で聞く。私は目元を拭いながら返事をした。
「お姉ちゃんが、お姉ちゃんじゃないから」
目の前にお姉ちゃんがいる。それなのに歌詞をつぶやくだけではまるで作り物のようだ。でも、これが私の記憶の中のお姉ちゃんだ。
数少ないトライARの映像記録の方が生き生きしていた。
「ふーん。お姉ちゃんはお姉ちゃんなのにね。ねえねえ」
小さな私が手招きした。私は屈んでその口元に耳を寄せる。
「お姉ちゃんのことどう思っているの?」
「どういう意味? もちろん、好きだけど」
「本当に?」
小さな私は疑うような目線を投げかけてくる。
「本当は、分からない……」
だって、本当の所、お姉ちゃんのことをちゃんと覚えていないから、覚えているというより記憶にあるのは映像の記憶。それはお姉ちゃんだけど、お姉ちゃんの一面でしかないことはちゃんと分かっている。
「私はね」
小さな私は内緒話をするように小声になった。
「私、お姉ちゃんのこと大っ嫌い!」
「え」
そんなはずはない。私はいつもお姉ちゃんのライブについていって、いつも大好きだって言っていて。
「ねぇ、なんでワタベサイクルに行ったの?」
「ワタベサイクル?」
なぜ、いまあの店が出て来るのだろう。
「だって、東京に行くなら自転車じゃなくてもいいでしょ」
「それは、そうだけど。あ、写真を見つけて」
押し入れから出てきた写真を見たかったからかもしれない。すごく懐かしくて、すごく重要なことのように思えた。
「覚えていたからじゃない?」
「何を?」
「あの、夏のこと」
小さな私にお腹を押される。私はいとも簡単に背中から倒れていった。
ミーンミーンミーン。
一度瞬きをするとそこは真夏だった。絵の具で塗りつぶしたような青い空に大きな白い雲が浮かんでいる。
『それじゃ、二人をよろしくお願いします。近くだからって無理を言ってすみません。しかも一晩もご厄介になるなんて』
『いいのよ。久しぶりに会うお友達もいるんでしょ。楽しんできてね』
あ、と思った。そこはワタベサイクルと書かれている。十数年後と全く変わらない店構え。その前に、少し若く見える綿部のおばさん。
『じゃあ、コパン、麦音。いい子で待っていてね』
お母さんはおめかししていて、今よりずっと若く生活に疲れていない。いつもは着ない青いワンピースを着ておしゃれをしていた。私の頭を撫でると言う。
『もう。子供じゃないんだから。麦ちゃん、お母さんいなくても平気だよね』
白いワンピースを着ているお姉ちゃんは、上品に笑って私を覗き込む。
『うん……』
たぶん本当は平気じゃないんだと思う。私の目にはじんわり涙が浮かんでいる。それを引っ込めようと堪えていた。
『それじゃ、よろしくお願いいたします』
お母さんはもう一度頭を下げ、綿部のおばさんに言い置いてから歩いていった。
『それじゃ、お母さんがお友達の結婚式に行っている間、うちで遊んでいてね』
おばさんが私たちをお店の中に招いた。相変わらず呆れるぐらいたくさんの自転車が並んでいる。
『うちにもね。子供がいて、麦音ちゃんの一つ年下なんだけど。あっ、仁太!』
いきなりおばさんが大きな声を出した。おばさんの背中越しに覗いてみると、小さな子供用の自転車にまたがっている男の子がいた。小さい頃の仁太くんだ。赤いヘルメットをして、タンクトップのむき出しの腕には絆創膏がたくさんついている。
『今日はお客さんが来るから出かけちゃダメって言ったでしょ!』
『そんなの知らないよーだッ』
仁太くんはお店の中だっていうのに、自転車をこぎ出した。
『あ! こらっ!』
『きゃっ』
器用に私たちの間を走り抜けていった。呆然と見ている私の横でお姉ちゃんはスカートをパタパタと払っている。
『もー、なんなの?』
私は心の中で笑っていた。なんだか、仁太くんは十年後と変わらなくておかしい。
『ごめんなさいね。あれがうちの子の仁太っていうんだけど、全然言うこと聞かなくて。とにかく中に入ってちょうだい』
私たちは居間に通された。十年後とあまり変わらない。テレビがあって、食卓があって。さっぱりとした居間。チリンチリンと風鈴が鳴っている。畳を張り替えたばかりなのか、緑色でい草の匂いがした。
『隣の部屋に仁太のおもちゃや本があるから、麦音ちゃんそれで遊んでね。本人がいればよかったんだけど。自転車乗ること覚えたら、もうそればっかりで。まぁ、自転車嫌いにならなくてよかったんだけど。ほら、自転車屋の息子なのに自転車が嫌いじゃあれでしょう』
襖を開けた隣の部屋には新幹線やブルドーザーなどのおもちゃが置かれていた。それには興味が湧かなかったのか、私は積み上げられている絵本を眺める。
『それじゃ、私はお店にいるから何かあったら呼んでね』
『はい。ありがとうございます』
お姉ちゃんは、おばさんに笑顔で丁寧に頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます